ゲルツェンと「若い世代」

(『世界史通報』第2号、1901年1月掲載論文によせて)

トロツキー/訳 清水昭雄

【解説】この論文は、トロツキーがシベリア流刑中に『東方評論』に書いた一連の文芸評論の一つである。今回アップするにあたって、訳注を充実させておいた。

Л.Троцкий, Герцен и молодое поколение, Сочинения, Том20, Культура старго мира, Мос-Лен., 1926.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 これから私が述べるのは、右に挙げた雑誌の一般的な特徴についてではない。この雑誌にはそもそも特徴などないからだ。さまざまな形の寺院とピョートル大帝の記念碑の描かれた表紙、「目次」、「予約購読者へのお知らせ」、「論文筆者(の皆様?)へのお知らせ」、そして論文そのものもあるにはあるが、特徴といったものは存在しない。したがって、周知のように、何もないところには裁きもない、つまり批判もない、というわけだ。

 いくらか意見を述べたいのは、『世界史通報』誌に掲載されたエヌ・ベロゼルスキー氏の「ア・イ・ゲルツェン(1)と『若い世代』(つまり、1860年代世代)」という論文に関してである。初めにいくらか予備的なコメントをしておこう。60年代への共感という点ではしばしば非常に異なった思潮に属する人々が一致している。しかし、基本的な分析をほんの少しでもしてみれば、このような共感の「相似」がまったくの見せかけであることが明らかになるだろう。60年代を「大改革時代」の政府官僚や政治家の名と結びつけて連想する人々もいれば、60年代という同じ言葉をピーサレフ(2)やバザーロフ(3)や彼らと関係する他のもろもろのことがらと結びつける人々もいる。「若い世代」を特徴づける際にベロゼルスキーは明らかに後者、つまり60年代の、政府とは関係のない流れを考えている。

 一見したところ、ゲルツェンと「若い世代」とが決裂した時期からわれわれはずいぶん時間的に隔たってしまったので、この決裂を検討するとすれば、それは主として客観性のある自然主義的な研究でなければならないように思える。しかし、それはあくまで「一見したところ」である。どうやら現在は過去にあまりに深く根づいているようで、生活は現在と過去をつなぐ臍の緒をまだ断ち切っていない。そこで、われわれは――悲しいかな!――ベロゼルスキー氏とともに、1860年代世代の活動、そして彼らと40年世代の代表者との反目とを、誰かの嫌疑をはらし、誰かをもっと非難しようとする目論見――しばしばわれわれ自身からさえ隠された目論見――を持って検討してみようと思うのである。

 ベロゼルスキー氏は、その論文から見たところ、ある作家が実に巧みに言いあらわした「適度であることへの熱中」というたぐいまれな資質において際立っている。これは形容矛盾(contradictio in adjecto)ではない。適度さというものもそれ自身、熱中、時として極端に度をこえた熱中を示すし、また何であれ度をこえたものにたいする非妥協的で狂信的な憎悪を持つのである。ベロゼルスキー氏の小論は全篇、適度であることへの非常な熱中に彩られている。

 「ネフスキー通り40番の堕落した可愛い娘」は1860年代に対して何やら大変不作法なことをしでかし、そのあとで「道徳的な」支持をやたら求めて、すぐ近くの巡査に卑屈に笑いかけている。いくらか香水が「プンプン」し過ぎるとはいえ立派な新聞である『モスクワ報知』(4)は4つの蹄をできる限り使って60年代を蹴とばそうとするが、そのついでに40年代、70年代、80年代、90年代も、いや屯田兵的な理想という地平の上に少しでも頭を出そうとするあらゆるものを傷つけてしまうという具合だ。ところが、なにやら適度であることに熱中するベロゼルスキー氏は問題にアプローチするのに横から、「自由主義的な」ほのめかしで迫り、いきなり小さなナイフで刺し、ペン先でやりこめて、その後は、すべての自由主義的な外見を守り、法のあらゆる厳格さにしたがって、「極端」「粗暴」、「狭隘」、「融通性のなさ」を断罪するのである。

 ベロゼルスキー氏はゲルツェンと「若い世代」の関係を検討するのに7ページも割いていないが、その限られた紙幅に数多くの歴史的な虚偽を詰め込み、適度であることに熱中したプチ・ブル的な深慮をしばしば示しているので、彼に驚嘆し、敬意を払わないではいられないのである。

※原注 文学的所有権を尊重して急いで言っておくが、この今なお的確な規定は『ロシアの富』の寄稿者ポダルスキー氏のものである。(編者注――ネフスキー通りの40番には『ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙(5)の編集局が置かれていた) 。

 著者の見出したところによれば、ゲルツェンと「若い世代」との間に生じた不和の原因は「奥深く、一連のかなり複雑な心理的原因によるものであったが、ゲルツェンのような知性ある人物にそれらが曖昧で、理解のできないものであったはずはなかった」。この論拠から著者はゲルツェンの著作に向かい、そこに「両者の不和の原因を解明するのにも、また『若い世代』の亡命者たちそのものを性格づけるのにも少なからず興味深い資料」を見い出すのである。

 「興味深い資料」を著者が調査してみて明らかになったのは、「あらゆる『理念』、教養、さらなる知的発達からとうの昔に手を切ってしまった若い人々」には、30、40年代のモスクワの観念論者たちが「かってあれほど重視していた理論的諸問題」は少しも関心を惹くものではないということである。それは著者の論ずる所では、「一つには、若い人々にとって第一義的なものは理論的理想を実践的に実現すること(これはまた何という情状の酌量か)であり、……また一つには、彼らの知的な狭隘さと教養の低さのせいで、彼らの大部分にはそのような理論的問題は生じさえしなかった」からである。「学問もあまりやらない」ばかりか、「新聞さえもろくに読まず、きちんとフォローもせず」、……、さらに、最も不愉快なことには、「もっぱら自分の理念的観点だけからまわりの世界すべての現象を評価する、自己の理念の狂信者であった」このような連中からそもそも何が期待できるのか、というわけだ。また、その際、「なによりも若さには自己確信がつきもので、若い亡命者たち(著者はいたる所で「若い世代」とこの亡命者を同一視している)が他の綱領を受け入れるのは、ただそれが自分たちの綱領と矛盾しない場合だけである」のを忘れてはならない、というのだ。

 さらに、ゲルツェンが「ロシア的な、度量の大きい性格」(ああ、ベロゼルスキー氏よ!)の持ち主とされ、またベロゼルスキー氏によれば、「生粋のロシア人である」ゲルツェンは「心の穏やかさ」「穏やかな教養」を身につけ、「芸術的ディレタンチズム」「洗練された貴族主義」を特徴としていることなどをつけ加えるなら、なぜ「あのゲルツェンや彼の友人たちが……このような融通のきかない人々と一緒にいると、時として、息苦しく、重苦しく感じたか」が完全に理解できるのである。「よくあるところの最もデリケートな問題、つまり、金銭問題を基に」始まったあの分裂はここからきている、とベロゼルスキー氏は素晴らしくプチブル的な深慮によって指摘している。

 ベロゼルスキー氏はその仲裁裁判官としての役割において、御覧のように、「若い世代」に反対し、全面的にゲルツェンの側に立って、両者をしかるべく性格づけようとしている。しかし、こうした努力の結果、ベロゼルスキー氏には何か非常に思いがけない、そしてその思いがけなさにおいて教訓的なことが立ちあらわれることになった。歴史の真実とは何と情け容赦のないネメシス[復讐の女神]であることか!

 ゲルツェンについてわれわれはかなり曖昧な評価を聞かされた。「ロシア的な、度量の大きい性格」だって!なんとまた明確な内容を欠いた3つの単語の陳腐な組み合わせではないか。ノズドリョフ(6)でさえ「ロシア的な、度量の大きい性格」だろうに。穏やかな教養、教養のある穏やかさ……そして挙げ句の果ては芸術的ディレッタンティズム。本当に「こんな褒め言葉はろくなことにならない」!。

 著者が、賞賛するつもりで善意からゲルツェンを中傷し、個性を喪失させてしまったのに対して、「若い世代」については正反対なことが起きている。ベロゼルスキー氏はこの世代を「赤毛のならず者」の集団やろくでなしの集まりとしてではないにせよ、少なくとも「ニヒリズムのノズドリョフやサバケーヴィチ(7)のような輩」として描こうとしている。しかし、まさにこのような性格づけのうちに、彼自身がその意義を少しも理解できなかった――と見なすべき――まったく思いがけない調子が時としてあらわれることになったのである。

 確かに、若い世代は「知的狭隘さと教養の低さ」でひんしゅくをかっていたかもしれない。また「あらゆる理念、教養、さらなる知的発達」からはずっと前に手を切っていて、きちんと新聞をフォローさえしなかった。確かに、この世代は、加えて「冷淡で粗暴な、傲慢不遜で絶えず高揚した調子」(これはバザーロフのことを言っているのか?!)で際立っていた。確かに、彼らは「芸術に対して怒りを含んだ軽蔑」を示した。確かに、ベロゼルスキー氏の見解では、この世代は、文学において、バザーロフのような輩のみならず、マルク・ヴォーロホフ(8)や「(わが国の偉大な作家、芸術家によって創造されたその他のニヒリストたち(誰か?)」に代表されていた。さらに、確かに、あらゆる「理念」に片をつけてしまったこの世代は、氏がいう、「狂信的で不寛容な民主主義的『理念性』(ベロゼルスキー氏は簡単な印刷技術上の手段、つまり、括弧を使ってこの「理念性」を愚弄している)」において際立っており、この自分の理念からだけ外界のあらゆる現象を評価した(これは非難だろうか?)。そして最後に、彼らが「他の綱領を受け入れることができたのはただそれらが自分たちの綱領と矛盾しない場合だけであった」(この特徴もマイナスがつけられるものか?)。

※原注 「若い世代」をマルク・ヴォーロホフとして具象化した作家が天才的だとベロゼルスキー氏は述べているが、それは許しがたいたわごとである。生真面目で穏健だが、社会的感受性といったものがとことん欠如した(このことは心理的感受性の存在と矛盾しない。このより明瞭な例はドストエフスキー(9)である)官僚ゴンチャローフ(10)は中傷文や戯画を書くほど成り下がった。マルク・ヴォーロホフに体現されているのは、自分の描いている対象の生き生きした魂に対するゴンチャローフ自身の完全な無理解である。では60年代の偉大な作家によって創造された他のニヒリストたちとは誰のことか。マルケーヴィチ(11)、クリュシチニコフ(12)、レスコフ(13)の小説の主人公たちを考えるべきである。

 はなはだ興味深いのは、きわめて穏健なベロゼルスキー氏がこの世代の代表者たちに何を勧めようとしているかだ。自分自身の綱領と対立する綱領を受け入れることか。「外界のあらゆる現象」を著者によって括弧という公然たる検閲のもとにおかれた民主主義的な理念性の観点からではなく、さまざまな、つまり、「その場、その場に適応できる」観点から評価することか。ただ、サルトゥイコフ(14)の解釈によれば、「その場、その場に適応できる」綱領とは「卑劣さにも適応できる」綱領をも意味しているのを忘れないで欲しい…。

 おそらくベロゼルスキー氏はこれらすべてのことを勧めているのだろう。しかし、われわれは、「民主主義的な理念性」や狭隘な「融通性のなさ」の方が最も貴族的な没理念性や最も広範な融通性などよりも価値があるし、すぐれていることを疑わない。

 むろん、ベロゼルスキー氏は、彼がへたな腕前で黒色顔料をつけた筆を使って簡単に描き上げようとしてうまくいかなかったその世代の最も優れた代表者が、他でもないドミトリー・イワノヴィチ・ピーサレフその人であることをよくこころえていた。しかし、正真正銘の読み書きのできる野蛮人、ベロゼルスキー氏は迷信深いことに、自分にとって不愉快な人物の名を口に出すことを避けている。だがこの機会にピーサレフを思いだしておくのもいいだろう。そうすれば、例えば、民主主義的「理念性」や彼に始まる美学に対する「怒りを含んだ軽蔑」がどのようなものか、そこからある程度読み取れるだろう。

 「ニヒリズムの第一の使徒」たるピーサレフはこう言っている。「私のすべては私を創り上げた社会に属している。私の知性のすべての力は他人の労働の成果であり、もし私がこの力のすべてをさまざまな下らない快楽に浪費してしまうなら、私は自分のすべてを完全に負うているまさにその社会にとっての返済不能者、それどころか、敵になるだろう」。

「このような真面目な結論に諸君が達するならば、(ベロゼルスキー氏よ、よく聞くがいい!)価値のない(ピーサレフの言い方では、美学的で非現実的な)生活や学問や芸術の享受は諸君にとって不可能になるだろう」(「現実主義者」)。

 繰り返すが、これがいくぶん狂信的で不寛容な民主主義的理念性の見本なのだ。また、同一の理念の観点から外的現実のすべての現象を厳格に評価するということに関しても、この「現実主義者」からある教訓的なことを読み取ることができる。ピーサレフによれば、「美学者」にとって実践的な愛の理念とは、きちんとした人が休日だけに着るぴかぴかの礼服のようなものだ。平日にそれを着て仕事にでかければ、その人の生活を耐えがたいものにしかねない。この同じ理念は、それを実践する「現実主義者」にとっては、ピーサレフの言葉でいえば、「自分の生活のどんな小さな行為にも合った」ゆったりとした家庭着である。さらにこの同じピーサレフが並はずれた狭隘さと融通性のなさでこう明言している。「飢えたる者、裸同然の者たちの問題をおいて他に、心を煩わし、深く考え、骨折るに値するものなど何もない」。

 ベロゼルスキー氏いわく、「ゲルツェンと若い亡命者たちの間にあった共通性はあまりに共通すぎて、この共通性にもとづいて仲よくやっていくことはできなかった」。ここには一分の真実がある。ただこうつけ加えておく必要がある。ゲルツェンと「若い世代」の観点にあった共通性は、両者にあって本質的に異なった心理的なニュアンスを持っていたということである。

 30年代と40年代の人々とは貴族であった。ただし自分たちが貴族であることを「悔い改め」、自分たちの共感のすべてを上から下に、つまり大衆に向けた貴族であった。

 60年代と70年代の典型的な代表者である雑階級人は、下方の、蒙眛な大衆から、上方へ、光へ、学問へと突き進んだ。学問は、ベロゼルスキー氏のまったく偽りの主張に反して、雑階級人が我を忘れるほどに尊重したものであった。貴族であることを悔い改めながらも、なお「洗練された貴族」、「芸術的なディレッタント」である貴族が雑階級人の事業に同情的態度を示した時、それは、大衆の息子、血を分けた息子である雑階級人の賤民的な誇りを侮辱することになった。ここから多くの心理的な紛糾が生じたのである。

 ドブロリューボフ(15)、ピーサレフ、エヌ・カ・ミハイロフスキー(16)など「若い世代」の人々がツルゲーネフやカヴェーリン(17)に対してとった態度、あるいは逆にカヴェーリン、ボートキン(18)、シチェルビナ(19)、さらに、ミハイル・デ=プレ(20)が、下からひょっこり現れた雑階級人にどんな態度を取ったかを思いだしてみよう。雑階級人は一般的には彼ら貴族と同じ理念をとなえていたかも知れないが、彼らには全く新しい、美的な臭覚にはなじまない社会的な臭いがしみついていたのである。

 特に若い亡命者に対するゲルツェンの態度に関していえば、彼の権威的で、自信過剰な性格が問題とされねばならない。彼は、いわば「同輩の中の第一人者」(primus inter pares)であり、自分のまわりの人々さえをも、いくらか見下さないではいられなかった。例えば、カヴェーリンに対してゲルツェンは、ボグチャルスキー(21)の表現によれば、「高圧的な調子」で手紙を書いたし(『科学評論』1900年、IX、1546)、ツルゲーネフは、一度ならずゲルツェンに対する手紙を次のような言葉で始めねばならなかった。「ねえ、君は怒ってるんだ。怒ってるんだね、アレクサンドル・イワノヴィチ」。この調子は、ゲルツェンが並外れた才能の持ち主であることによって十分に説明されるし、また絶えざる崇拝の雰囲気によって醸成されたものではあるが、それは若い亡命者たちに当然な反発を呼び起こしたにちがいないと見なすべきだろう。その上、亡命生活の雰囲気というのはあらゆる不和を育て上げる温室なのだ…。しかし、ゲルツェンの「調子」というのは、些細なことで、われわれはそれについて詳しく論じるつもりはない。

※  ※  ※

こういうわけで、ゲルツェンと「若い世代」との間に生じた「不和の根は深く、一連のかなり複雑な心理的原因によるものであった」ことはベロゼルスキー氏とともに認めなければならない。しかし、ベロゼルスキー氏によるこの複雑な原因解明の試みは、適度さへの熱中という武器庫から持ち出されたまったく役に立たないしろものによってなされており、決裂という事実の解釈に彼が持ち込んだのは混乱だけであった。

 ベロゼルスキー氏の深慮はどれもまったく注意に値しない、あるいは、いずれにせよ詳細な検討には値しないと言える。しかし、一時的な事情にもとづいた反対は正当ではないだろう。大きな状況を見てみれば、われわれは、ゲルツェン再興、あるいはゲルツェンの公認ともいえる「時代」をむかえようとしているように思える。そこでは当然ゲルツェンのある種の個人崇拝がおこなわれるか、あるいは新しい形で再興するだろう。われわれは、ゲルツェンの個性が非常に偉大で、鮮やかで、またロシアの社会的自己意識の発展史における彼の功績が非常に大きいこと知っている。それだからこそゲルツェンに代ってやってきた世代、ロシア社会の先進的グループの記憶の中にけして人後に落ちない独自の場所をしめた世代を特に卑しめるという代価を払ってまで、彼を再評価し、過大評価するいかなる必要もないし、またそうすることはできない、と心から確信している。

『東方評論』第88、91号

1901年4月22、26日

ロシア語版『トロツキー著作集』第20巻『旧世代の文化』所収

『トロツキー研究』第15号より

 

  訳注

(1)ゲルツェン、アレクサンドル(1812-1870)……ロシアの作家・評論家、ナロードニキ革命家。。国内で革命サー クルを作り逮捕・流刑。1840年、モスクワへ帰り、ベリンスキーらの「西欧派」グループに入る。1847年、ヨーロッパに亡命してバクーニン、プルードンらと親交を結ぶ。1848年革命で労働者が虐殺されたのにショックを受けて西欧民主主義に幻滅し、ナロードニキ的傾向をとる。

(2)ピーサレフ、ドミートリー(1840-1868)……ロシアの批評家。既成の権威、道徳を自然科学的思考によって打ち砕けと提唱した彼の「ニヒリズム」は当時の青年たちに強い影響を与えた。

(3)バザーロフ……1840年代の「観念の世代」と60年代の「行動の世代」との相剋を描いたといわれるツルゲーネフの小説『父と子』の主人公。後者の世代の若者は自然科学を尊重し、前者の世代の貴族的、理想主義的、観念論的価値観を否定したため「ニヒリスト」と呼ばれた。バザーロフはその典型として描かれた。ドブロリューボフをモデルにしたといわれる。

(4)『モスクワ報知』……反動派の新聞。1756年創刊。他の反動派の新聞と比べてもとりわけ徹底し、断固とした態度をとる。

(5)『ノーヴォエ・ブレミャー(新時代)』……ペテルブルグの保守系の日刊紙。1876年創刊。編集発行はスヴォーリン。

(6)ノズドリョフ……ゴーゴリの小説『死せる魂』に登場するグロテスクな性格の地主。

(7)サバケーヴィチ……ゴーゴリの小説『死せる魂』に登場するグロテスクな性格の地主。

(8)マルク・ヴォーロホフ……ゴンチャローフの小説『断崖』の登場人物。革命家ヴォーロホフはそこでは徹底的な悪党として描かれている。 

(9)ドストエフスキー、フョードル(1821-1881)……ロシア文学を代表する作家。当初、社 会主義的傾向を持っていたが、その後、神秘主義に。『虐げられた人々』、『罪と罰』、『白痴』など、日本人にもなじみの深い著名な作品多し。

(10)ゴンチャローフ、イワン(1812-1891)……ロシアの作家。1859年に、貴族社会に絶望しながら新しい生活を切り開くことのできない青年を描いた『オブローモフ』を発表。オブローモフ主義という言葉が生まれた。1856年から帝政ロシアの検閲官になる。

(11)マルケーヴィチ……ロシアの作家。

(12)クリュシチニコフ……ロシアの作家。

(13)レスコフ、ニコライ(1831-1895)……ロシアの作家。社会性の持たない作品を多く書き、1864年の『八方ふさがり』でニヒリストを皮肉る。そのせいで同時代の民主的知識人や、社会性を重視する作家たちから反感を買った。『僧院の人々』『魅せられた旅人』など。

(14)サルトゥイコフ(シチェドリン)、ミハイル(1826-1889)……地主貴族の子。作家。シチェドリンという筆名で、農奴制を批判する風刺的作品を多く書いた。

(15)ドブロリューボフ、ニコライ(1836-1861)……文芸批評家。農奴解放前夜の革命派の指導者。1840年代の貴族知識人の自由主義を批判した雑階級人の代表者の一人。

(16)ミハイロフスキー、ニコライ(1842-1904)……ロシアの社会学者、ナロードニキの理論家。農民社会主義を唱えてマルクス主義と対立した。

(17)カヴェーリン、コンスタンチン(1818-1885)……学者、社会活動家。ツルゲーネフやボートキンの友人。1840年代、50年代の西欧派を代表する理論家の一人。革新的な農奴解放私案を考えた。また個の確立の問題を生涯考え続けた。ロシアの自由主義の代表者の一人でもある。

(18)ボートキン、ワシーリー(1812-1869)……ロシアの作家。ゲルツェンやベリンスキーの友人。ヘーゲルやサン・シモンの影響下に自己の世界観を形成した典型的1840年代人の一人。

(19)シチェルビナ、N・F(1821-1869)……ロシアの詩人。ギリシアの美や愛を詠った。また社会活動や60年代の進歩的活動家を批判する多くの風刺詩を書いた。

(20)デ=プレ、ミハイル(1822-1885)……ロシアの教育者、作家。1881年に「ロシア人の生活の病理現象としてのニヒリズム」という論文を発表した。

(21)ボグチャルスキー、ヤコブレフ(?-1918)……ロシアの政治家、評論家。最初、ナロードニキとして政治的経歴を開始するが、その後マルクス主義者に進化。1897年に合法マルクス主義者の雑誌『ノーボエ・スローヴォ』に参加。その後、経済主義者になる。1900年、クスコヴァ女史らとともに「オスヴォボジュデーニエ(解放)」派を結成。その後、カデットになる。

 


  

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