パルヴス――生ける友への弔文

トロツキー/訳 志田昇

【解説】本論文は、第1次大戦勃発直後から猛烈なドイツ愛国主義の立場を表明したパルヴスに対する決別の文章である。トロツキーは、ここで率直に述べられているように、その政治的・思想的成長において何よりもパルヴスに負っていた。しかし、パルヴスは、第1次ロシア革命敗北後、ヨーロッパに亡命してから、しばらくはなお革命的社会主義の立場で活動していたが、バルカン戦争のときに武器商人として巨万の富を築いてからは、すっかり支配体制の一員として生きることになった。パルヴスは、ロシア2月革命勃発後、ロシアでの革命の勝利はドイツにとって有利になると考え、ボリシェヴィキの指導者を封印列車でロシアに送り返すうえで裏の舞台で活躍した。

原題名は「パルヴス」だけであったが、「生ける友への弔文」という題名がドイッチャーのトロツキー3部作によって有名になっていたので、それを副題にしておいた。

Л.Троцкий, Парвус, Годы великаго перелома, Мос., 1919.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 コンスタンチノープルで、国際的に名の知られたロシアの革命家が声明を出し、その中で、トルコとその中央ヨーロッパの同盟諸国を民主主義の砦であるとみなしている。ソフィアでは、ドイツ社会民主党員がブルガリアの聴衆を前にしてロシア語で青年トルコ党の理念を擁護した。この人物がパルヴスであり、われわれが長年の間友人とみなし、今や、政治的屍のリストに入れることを余儀なくされている人物である。

 20年にわたって、パルヴスはドイツ社会民主党の隊列の中で、しかるべき地位を占めてきた。全面的な教養をそなえたマルクス主義者であり、本物の階級的直観を有したプロレタリア政治家であり、鋭い論争的パンチを駆使する先見の明ある政治評論家であり、力強い文体を身につけた文筆家であり、全支配勢力に対する非妥協的な不信を抱いた革命家であり、『フランクフルター・ツァイトゥング』の卓越した、そしてすぐれて賞賛的な評価によれば、「革命の鎖につながれた犬」である。このようなものとして、パルヴスはドイツ社会民主党の歴史に残るであろう。世界市場の発展や労働組合運動やゼネラル・ストライキに関する彼の諸労作は、社会主義文献の揺るぎない財産目録の中に永遠におさめられるだろう。

 彼は、ロシア革命に、大きな理論的能力と国際的な思想的経験をそなえた円熟した人物として参加した。『イスクラ』に掲載された戦争と革命に関する彼の諸論文をわれわれはみな誇りとし、そこから多くのものを学んだ。これらの諸論文は、わがロシアの問題を国際的な歴史的高みにひきあげた。

 そして、今では、若干の「主観主義」のディレッタントたちが、パルヴスの堕落を利用して、自分たちがそこまで達することができなかったパルヴスの過去をはらいのけようと試みているが、このような試みはまったくみじめなものであり、くだらないものでしかない。「主観主義」の暴露屋の綿でくるんだ文章など、思想の物質的な力に真に満ちているパルヴスの最良の諸労作にくらべれば、永遠に中学生の習作にとどまるだろう。

※原注 チェルノフの書いたものを指している。

 現在、パルヴスという名誉ある筆名を使ってバルカンに登場している人物からしばし目をそむけるなら、本文の筆者は、自分の思想的成長を、ヨーロッパの社会民主党の古い世代の誰よりも一番多く負うているその人に、当然はらうべき敬意をはらうことを、個人的名誉と考える。

 パルヴスとともに、われわれは『ナチャーロ』において、ロシア革命がヨーロッパの発展における社会革命の時代の序曲であり、ロシア革命は自由主義ブルジョアジーとプロレタリアートの協力によっても、革命的農民とプロレタリアートとの同盟によっても、「完成」することはできず、ロシア革命が勝利しうるのは、ヨーロッパのプロレタリア革命の構成部分としてのみであるという思想を主張した。そして、主要な功績がパルヴスのものであるこうした診断と予測を否認しなければならない理由は、今やどんな時にもまして存在しないと私は考える。「主観主義」の中学生どもは、永続革命の概念について忍び笑いするがいい。彼らには、彼らが外見上の独立性をもってその中でもがいている今日の破局の意味がわからないのと同じように、永続革命の意味もわからなかったのである。

 パルヴスといっしょに、われわれはロシアの地に最初の労働者新聞――ペテルブルクの『ルースカヤ・ガゼータ』――を創刊した。そして、われわれは彼から簡潔な思想を簡潔な言葉で表現するという難しい技術を学んだ。パルヴスの直接の協力のもとで、われわれは革命の最も沈滞した時期にウィーンで労働者新聞『プラウダ』を創刊した。

 ここで、パルヴスの堕落の原因を説明しようとは思わない。議論の余地なく、この事例も、第2インターナショナルの破局という一般的枠組みの中におさまるものである。しかし、一般的な解釈だけですますには、彼はあまりにもパラドクスに満ちた存在である。だが、個別的な解明をするには、われわれは力不足であるし、個人的な原因をつきとめる必要があるとも思えない。われわれにとって、政治的には事実が自ずから語ることでまったく十分である。

 ヨーロッパの南東のはしコンスタンチノープルに移動したパルヴスは、マルクス主義をたずさえて青年トルコ党に入党した。その党の中で理念を提起しようというのだ。私はいちいちこの理念に注目してきたわけではないので、それを評価することはできない。だが、彼がかつてあれほど執拗に打ち鳴らしていた歴史の警鐘のかすかな音がすでに聞こえてきている現在、パルヴスは青年トルコ党の理念をかついで世界の舞台に登場したのである。何とみじめで不名誉な結末か!

 最近登場したパルヴスは相変わらずソフィアでトルコ帽をフリギア帽風(1)にかぶろうとしているようだが、彼はいったい何を期待しているのだろうか。

 彼は、彼のことを知っているわれわれのような人々に、ベルリン、ペテルブルグ、ウィーン、コンスタンチノープルという軌道を描くとによって、彼が政治的文化のすべての被いをぬぎすて、野蛮で愚鈍な黄金時代に戻ったと信じさせたいのであろうか。いや、われわれはそんなことを信じはしない。

 あるいは、彼がでっち上げたベルリンとコンスタンチノープルのエセ理念があいかわらずバルカンでの販売活動にとって十分に役立つことをあてにしているだけなのだろうか。とすれば彼は見込み違いをしている。今日では、バルカンの運命はヨーロッパの運命とあまりにも密接にむすびついている。そして、歴史が点呼を行なう時は、にせものが市場を独占するよりも早く到来するであろう。

 パルヴスはもういない。バルカンを徘徊しているのは、自分のすでに死んだ生き写しを誹謗している政治的なフォールスタフ(2)である。パルヴスが革命的社会主義の本の中に書き込んだことは、イスラム教の教主にも、ヴォルフの諜報機関にも、ロシアの「主観主義的」未熟者にも、ぬぐいさることができない。だが、われわれはこの政治的フォールスタフをその新しい同盟者たちにすっかり譲り渡すだろう。彼は、死人が自分の死体を埋葬するのを手伝うのにちょうど適している。

1915年2月14日

『ナーシェ・スローヴォ』第15号

『トロツキー研究』第13号より

 

  訳注

(1)「フリギア帽風」とは、帽子のはしを折り曲げてかぶるやり方で、フランスのジャコバン派が愛好した。

(2)シェイクスピアの『ヘンリー四世』に出てくる陽気でほら吹きのでぶっちょ兵士。


  

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