世界経済の発展の諸問題

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、1926年1月18日にヴェセンハ(最高国民経済会議)の工業経済会議が主催した報告集会で行なわれたトロツキーの演説であり、若干の編集上の修正を加えて『計画経済』誌に掲載されたものである(トロツキー本人はチェックしていない)。その報告集会の主題は、1918〜25年における世界経済の発展傾向を分析し、今後の展望を明らかにすることであり、主たる報告者は、ブクシパン、コンドラチェフ、スペクラトル、ファリクネルであった。トロツキーは、この演説の中で、とくにコンドラチェフの大循環論を批判している。1923年の論文「資本主義の発展曲線」と同じく、10年単位の通常の景気循環と、数十年単位の長期的な変動と、資本主義そのものの盛衰を表現するもっと長期の曲線の3つを区別している。トロツキーは、数十年単位の長期的な変動曲線の存在を認めていた点でコンドラチェフと意見を同じくしていたが、主に次の4つの点で根本的に意見を異にしていた。

 1、コンドラチェフはこの変動を50年単位の「循環」とみなしていたが、トロツキーはそれを「循環」とみなさず、たまたま、だいたい50年で変動が見られたにしても、それは偶然にすぎないと考えた。2、コンドラチェフは、この「循環」は、10年単位の景気循環と同じく、資本主義の内的メカニズムそのものから必然的に出てくるものと考え、その物質的根拠を、固定資本よりも長期の単位で更新される基礎的資本(産業インフラや熟練労働など)に求めたのに対し、循環説を拒否するトロツキーは、その長期変動を、資本主義世界システム全体から生じているのにせよ(その意味では「内在的」である)、10年単位の景気循環のような資本主義のメカニズムそのものから生じてくるわけではない(その意味では「外在的」である)とみなした。3、コンドラチェフは、この「大循環」の内的メカニズムに注意を集中していたために、資本主義システムそのもの盛衰が「大循環」に与える決定的な影響を見過ごしていたが、トロツキーはまさに資本主義の盛衰こそが短期的ないし長期的な経済的変動を根本的に制約し、影響を及ぼしているとみなしていた。4、したがってこのことから、トロツキーが、資本主義の長期的変動において階級闘争の帰趨が与える決定的な役割を理解していたのに対し、コンドラチェフは、主体的要素を抜きにした機械的な予測をする傾向にあった。

 本稿は、すでに『トロツキー研究』第11号に掲載済みであるが、今回アップするにあたって、訳注をつけ加えておいた。

Л.Троцкий, К вопросу о тенденциях развития мирового хозяйства, Плановое Хозяйство, Янбарь 1926.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 私が論じたいと思う最初の問題は、予測を試みることが可能かどうかという問題である。次の3年間に恐慌が起こるかどうかに関して正確な予測はできないということであるならば、私としてもこのような相対的で条件つきの懐疑主義に合流したいと思う。ただし、あくまでも条件つきである。なぜなら作業仮説としての予測なしには、そして予測の際には景気変動を考慮することなしには、今や理論的のみならず実践的にも方向設定することができないからである。

 わが国は貿易国であり、商人であり、購入し販売する。つまり、どこから購入しどこに販売するかを知らなければならず、景気変動を利用しなければならない。わが国でやっているのは卸売り業であるから、1週間で商品を実現することはできず、実現には数カ月ないし数年かかる。それゆえ、先を見通す必要が出てくるのである。予測なしにはにっちもさっちもいかない。もし予測が間違っていたなら、誤算して損を出すことになり、これは貿易収支にそれなりに反映されるだろう。

 しかし、一般的な発展線が問題となっているかぎり、予測に関して悲観主義に陥るとすれば、その方がはるかに大きな間違いだろう。なぜなら、次の3年間を評価するうえで、その成り行きをヨーロッパおよび全世界の経済力の発展一般から切り離すことはできないからである。次の3年間を考える場合、それをこれまでの歴史の単なる継続とみなすことはできないと思う。つまり、これまでの歴史の一線分ないしは一曲線を3年間延長したものとみなすことはできない。むしろ私は、きたる3年間を次の曲線の一線分と考えている。まさにこのような視点から予測について考えるべきだろう。この意味では、次の3年間に関する予測が間違っていた場合でも、一般的には正しい場合がありうる。ちょうど過去の多くの革命的予測が発展テンポに関しては間違っていたとしても、一般的には正しかったようにである。

 もし資本主義の発展が、ヨーロッパおよび全世界において嵐のような新しい上昇を遂げるという結論になるならば、この予測は、われわれの運命にとって若干の――けっして取るに足りなくはない――実践的結果をともなうだろう。しかし現在でも明らかなように、もし資本主義が嵐のような成長を遂げれば、そんなことが可能であったならば、破滅的であろうし、一定の条件においては、われわれにとって破滅的であろう。まさにそれゆえ、予測の問題は重大な意味をもっているのである。そして、もちろんのこと、唯物論的分析の方法を正しく用いるならば、予測は可能である。

 報告者たちの基本思想を私が理解したかぎりでは、彼らの中には、現在の時期に対してきわめて図式主義的かつ形式的な経済分析を行なっている者がいる。

 ブクシパン教授は戦後における経済発展の循環性に固執している。それは循環的かそれとも非循環的か? 多少なりとも規則正しい循環を確認することができるだろうか? 私はできないと思う。この考えはマルクスに、マルクスの循環発展論に反しているだろうか? いや反していない。なぜか? なぜならマルクスの理論は超経済的理論ではないからだ。循環は、運動状態にある歴史的存在の内的リズムを表現している。だが、いかなる条件においてもか? いや、そうではない。たとえば、戦争は恐慌の2年目に勃発した。恐慌が始まったのは1913年であるが、疑いもなく、この深刻な経済的事実と社会的性格をもった事実――抽象的な経済学ではどうにも手のつけようのないもの――は次のことを示していた。1913年に始まったのは単なる景気循環上の恐慌ではなく、全経済状況の、少なくともヨーロッパの経済状況の転換であり、ヨーロッパがますます市場の限界に頭をぶつけるようになった、ということである。生産力が、それ以前のおよそ20年間にヨーロッパで見られたようなテンポで今後も発展する可能性は、著しく困難になった。軍国主義が成長を遂げたが、それは軍国主義と戦争が市場を創出するからだけではなく、軍国主義が、自決をかちとり強力になるための闘争におけるブルジョアジーの歴史的道具だからである。恐慌は、市場がきわめて狭隘なものになってしまったことを暴露した。それゆえ、その2年目に戦争が始まったのも偶然ではない。ブルジョアジーは、商業上の出先機関を通じて、経済上および外交上の出先機関を通じて、市場に探りを入れてきた。ちょうど、現在わが国のような若い国家が自らの出先機関を通じて世界市場に探りを入れているのと同じように、彼らは市場に探りを入れていたのである。ブルジョアジーは事態を理解した。これは階級的いらだちを生み出し、政治の緊迫化をもたらした。そして、これが1914年8月に彼らを戦争へと導いたのである。

 戦時中、資本はすばらしい仕事を行なった。これはどういう意味か? 景気変動はどうなったか? 肝要なことは、まさにこの景気変動がマルクスではなく軍経理部にしたがっていたということある。軍経理部がマルクスに反対であるということ、これに議論の余地はない。だが景気変動はマルクスに反してはいなかった。なぜなら、マルクスの景気変動は、上から無理やり経済にたたきこまれた曲線(これでも食らえ、好むと好まざるとにかかわらず、とにかく食らえ)ではけっしてないからである。この曲線は経済から生じる。だが、戦中の景気変動においては経済は政治から生じており、あたかもヨーロッパがマルクスの理論を知らないかのように、通常の景気循環はもはや見出せなくなったのである。

 では、戦後の1年目はどうか? ドイツ人はこの景気を――ドイツ人は一般に正確な用語を好む――景気もどきと呼んだ。なぜなら、1919年と1920年においては、戦時のやり方がまだ部分的に経済の領域で続いていたからである――インフレーション、およびそれにもとづいた、すなわち基礎的資本の浪費にもとづいた、きわめて乱暴な労働者優遇措置、等々。

 実際、これによって、主要ヨーロッパ諸国の基礎的資本は、見かけ上の好況のもとで使い果されてしまった。好況の外観に隠れて、戦時のやり方で破壊が進んだ。これこそ景気もどきである。その後、戦争のつけを払う時期が始まった。これは、1913年に始まった困難を倍化した。

 まさにこの戦争の決算は、1913年に始まった新しい下降過程に重くのしかかってきた。資本主義はどうしたらいい? 資本主義はもがき、痙攣し始め、出口を求めている。このような時に、規則正しい循環が存在するだろうか? 探してみたまえ、同志諸君、痙攣の中に規則正しい循環を。がんばって探してみたまえ。しかし、だからといってマルクスの理論が役立たないということではない。それはなお有効である。だが、正しく適用することが必要だ。

 最も単純な例を取り上げよう。万歩計という道具がある。これは非常に大雑把な装置で、歩数を正確に計るものではない。人間の足どりを多少なりとも正しく知りたい時に、その装置はこれまで何ヴェルスタ歩いてきたかを教えてくれる。万歩計をつけた人がぴょんぴょん跳ね始めると、それはもはやそれほど正確ではなくなるだろう。だが、水たまりに落ちたり氷の上で滑ったりして、2〜3分もがいていると、万歩計は20、30、50歩も数えてしまう。その間、その人は同じ場所にとどまっているのにである。資本主義にも似たようなことが生じたのである。戦争は、資本主義にとって、恐るべき経済的瓦解であった。その戦争の後、われわれは何を目にしているだろうか? 資本主義が、新しいヨーロッパ――新しい国境によって区切られ、何十もの新しい関税障壁が設けられ、新しい重大な諸困難がつけ加わったヨーロッパ――の中で、この下落した経済の発展水準から上昇しようとしている様子を目にしている。個々の工業部門や個々の国、そしてヨーロッパにおけるこの発展曲線を見てみるならば、それはどのような曲線を描くだろうか? 資本主義が上昇しようとして、ぴくぴく痙攣している姿が描き出されるだろう。それを資本主義の正常なリズムとすることはけっしてできない――無理なのだ。これは深い分析を必要とする。そして、分析の多くの要素が与えられている。これらの諸要素の一覧表はわれわれに多くのことを教えてくれる。少なくとも、多くのことを思い出させ、多くのことをはっきりさせる。それらは非常に有益であろう。だが、これらのデータを規則正しい循環なる図式に合わせようとしたり、この循環を循環的連鎖の始まりとして描き出したり、これを根拠に、実際にはやはり――資本主義の観点から見て――楽観主義的な予測を立てたりすることは、間違いだろう。

 実際、尊敬すべき3人の報告者は、わずかながらこの点に関し有罪であるが、科学的な慎重さから、これについて沈黙している。科学的な慎重さはすばらしい特質である。すべての者が政治家である必要はないし、いわば政治という職業につきものの誤りを犯す義務もない。経済学者は慎重でいることができる。だが時として慎重さには萌芽的に軽率さが潜むことがある。まさに、資本主義が直面している危険性と困難さを慎重に評価することのうちには、資本主義の今後の発展の成り行きをあまりに楽観主義的に評価するという軽率さが含まれているのである。そして、私としては、3人の報告者に対して、このような慎重な非難をしたくなる。

 実際、景気の循環性はこの場合、マルクスの見解やマルクス理論の適用にまつわる単なる方法論的問題ではなく、発展の今後の道筋を評価するという問題である。マルクスは景気の循環性を暗示的に説明している。マルクスは、産業循環の完全な説明を与えることができなかった。彼の暗示のいくつかは非常に貴重なものであり、のちにヒルファーディング(1)によって念入りに練り上げられた。いずれにせよ、循環性は、疑いもなく、重工業における固定資本の拡張および更新と根本的に結びついている。この点に関して議論の余地はない。それゆえ、同志スペクタトルの指摘、つまり、ヨーロッパ工業の景気変動はいまだに古い固定資本(帝国主義戦争時のものか、戦前のもの)の枠内で生じているという指摘は、なぜ規則正しい循環性については語ることができないのかという問題を純理論的に説明している。同じ理由からして、[ソ連邦における]工業の現在の成長テンポ(年40〜50%)を今後もずっと続く正常な成長テンポであるとすることは間違いである。なぜならそれは、過去から受け継いだ固定資本を稼働させることによって達成された復興テンポだからだ。そして、まさに同じ理由からして、循環理論および、それから導きだされた方法論を戦後のヨーロッパ経済の分析に適用することは――わが国と違う条件下にあるとはいえ――間違いなのである。

 このことに付け加えるなら、いわゆる正常なヨーロッパ経済においても政治は大きな役割を果たしたが、その役割は呼吸における大気の役割のようなものであった。

 それに対し、転換期にある時には、つまり、経済がひきつりを起こしながら何らかの均衡を探し求めている時には、政治も軍事力もまったく異なった役割をはたす。その実例はかのルール占領事件である。原料の大規模な奪取が行なわれ、富がある国から別の国へと移動し、別種の軍税が開始され、経済活動に軍事的障壁が設けられた。そして、人為的回廊の創出のような半軍事的措置や、イギリスとアメリカ合衆国との間で行なわれているゴム原料をめぐる現在の闘争――これらはルール的方法の継続であり、経済におけるきわめて巨大で重大な要因になりうる。言いかえれば、われわれがここで目にしているのはすでに、われわれが戦前つねに分析対象としていたような、経済力の自由な、あるいは半ば自由な戯れではなく、国家のより集中された意志力が経済に押し入っているのである。そして、それはまた、規則正しい、ないしは半ば規則正しい循環性を――たとえそれが姿を現したとしても――中断させる恐れがある、ないしはすでに中断させつつあるのだ。したがって、政治を考慮することなしには、前へ進むことはできないのである。

 この点に関し、さらにまずいのは、コンドラチェフ(2)教授が大循環理論を提起した時の、彼のこの問題に対する対処の仕方だと思う。この理論の歴史がどうなっているのか私は知らない。私自身がこの問題に出くわしたのは、たぶん1920年[1921年?]のことだった思う。イギリスの新聞『タイムズ』1月新年号の付録に出ていた対数曲線を――おそらく初めて――見たときのことだ。その中で、イギリスの古い経済学者キチン(3)がこの対数曲線を表していた。そしてこの曲線を見たとき私は、1849〜50年になぜマルクスが誤りを犯したのかがわかった。最初彼は近いうちに革命が発展するものと予想した。その後、1951年にマルクスはこう述べている。現在革命を期待することはできない。なぜなら、経済好況が始まったからである。「しかし――と彼は言う――近いうちに恐慌が起こるのが必然的であるのと同じように、革命もまた必然的である」。だが、恐慌は起こったが、革命は起こらなかった。

 さて、キチンの曲線は、資本主義における基本的な経済過程の発展傾向を描いていた。それを見ると、マルクスの誤りがどこにあったのかがわかる。1851年に始まったのは単なる景気循環好況ではなく、資本主義の新しい大上昇期だったのである。要点を述べるとこうである。資本主義はいくつもの循環を通じて発展する。循環は、好況、停滞、不況、恐慌、等々からなっている。しかし、好況と恐慌との相互関係は常に同じというわけではない。資本主義の各発展期のうち、好況と恐慌とがほぼ均衡する時期がある。これが停滞期、沈滞期である(もちろん完全な停滞ではないが)。また、各循環における好況が、それに先立つ恐慌とその後に起こる恐慌とをはるかに凌駕し、その次の好況が、それに先立つ恐慌とその後に起こる恐慌とをさらにいっそう大きく凌駕する時期がある。これはどういうことかというと、全体として上昇曲線と特徴づけられる時期には、歴史が次々とこれらの頂上を突破していくということである。こうして、資本主義の発展線は、全体として、嵐のごとく上昇するのである。

 当時マルクスは、問題となっているのが新しい上昇の時代なのだということがわからなかった(というのは、彼は景気循環における好況だけを見ていたからである)。恐慌が単に一時的で弱々しい停滞であるにすぎず、好況がたちまち恐慌を克服し、経済を上方に引き上げる時代を、彼は予測していなかったのである。1859〜60年に革命は始まらなかった。この時に始まったのは戦争、イタリア統一戦争である。その後、わが国でクリミア戦争、次に普仏戦争が起こった。そして、焦眉の問題、すなわち国家的・民族的問題がこれらの戦争によって解決されたのである。だが1870年代に、沈滞、停滞、等々の新しい発展線が始まった。

 私は、コミンテルン第3回大会の時に、次のように言って左派に反対した。景気循環の一段階としての恐慌が必然的かつ不断に激化すると考えるべきではない。恐慌の変動は存在するだろう。が、それは下方への傾斜ないし上方へのわずかな傾斜を伴った停滞曲線にもとづいている。全体としてみれば、ヨーロッパにおける資本主義の停滞、腐朽の過程は進み、上昇しようとする痙攣的な努力、試みがなされるだろう。しかしながら、景気変動も存在するだろう。資本主義は死滅しつつあるとはいえ、それは呼吸するし、資本主義の呼吸と脈拍はまさにこの景気の循環曲線として表現される、と。

 その後私は、コンドラチェフ教授がその著作のなかで、この一大時代を、すなわち資本主義の曲線のある特定の一線分を、約50年の新しい循環として描きだそうとしているのを知った(たぶん1923年ないし1924年)。たしか私はどこかで、たぶん『社会主義アカデミー通報』で書いたと思う(4)。それは根本的に間違いだ、と書いた。いったい循環とは何か? 循環性とは、周期性、規則性、リズム性であり、過程そのものの内的特質から発生するものである。景気循環とはまさにこのような意味である。しかし、今の問題の場合、循環について語ることができるだろうか? もし偶然、年代的に、われわれの歴史が、われわれを道に迷わそうとして、これらの曲線をほぼ同じ長さのものにしていたとしたら(私はけっしてそうは思わないが)、はなはだこじつけ的とはいえ、近似的に循環を確立することができるかもしれない。だが、これを各国別にしようとすれば、すべてが崩壊する。他方、各国におけるマルクスの循環は完全に確証されている。だが、まさにこの大循環については各国別に確証されてはいないのである。

 そして、実際にそれは正しくない。またしても、いったい問題はどこにあるか? 資本主義の発展におけるこのような転換は、資本主義的過程の内的動態そのものから生じるのではけっしてなく、その発展において資本主義をとりまく諸条件から、あるいは資本主義の活動にとっての新大陸、植民地、新市場の発見から、あるいは資本主義の途上に横たわる軍事的・革命的大事件から生じるのである。たとえば、新しい強力な国、北アメリカ合衆国はヨーロッパの停滞をつくり出しうるであろうか? つくり出しうる。これは、ヨーロッパの経済発展の内的リズムから生み出されたものであろうか? いや、そうではない。だが、合衆国はヨーロッパの革命〔「発展」の誤植だと思われる〕を長きにわたって押しとどめておくことができるだろうか? もし革命が生じなければ、数世紀はそうなる[停滞する]だろう。

 もし私が、コンドラチェフ教授がそうしたがっているように、ヨーロッパの腐朽を大循環とみなすことを望んだとしても、だめだろう。小循環を論じた際に取り上げた歩行の例を再び取り上げるなら、循環的な景気変動は資本主義的歩行の動態を表わしている。これは資本主義の足どりである。それが山を登っているのか、下っているのか、あるいは沼地に足を取られているのか――このことはその場所の地形に依存しているのである。もちろん、ここで言う地形もまた偶然的な現象ではない。それは資本主義の発展そのものによって変形する。だがそれはけっして資本主義的発展それ自体に備わっている内在的な過程ではない。ここに深刻な相違があり、そしてここにコンドラチェフ教授の誤りがあると思う。

 以上のように、資本主義発展の可能性に関していわば潜在的に楽観主義的であるとコンドラチェフ教授を批判したわけであるが、わからないのは、アメリカの生産力が今やアメリカからヨーロッパへと移りつつあるということをコンドラチェフ教授がどのようにして証明しているのか、ということである。これは、私にはまったく理解できない。はっきり言っておくが、全然わからない。いかなる規模で、いかなる範囲で、いかなる比重で、この移動が生じているのか? このことを計算する必要があり、ここに核心があると思う。このような部分的な移動は何を意味するのか? 世界経済のヘゲモン[覇者]はアメリカであるという一般に認められている事実を考慮するならば、世界的支配者としての合衆国の発展しつつある地位を計算に入れることなくヨーロッパの発展ないし革命に関して予測することは、主人なしに決算書を書くことを意味する。こうしたことは今では一般に認められるようになっており、それについては議論するまでもないと思う。

 そこで、アメリカをこのようにみなすならば、そしてアメリカにとってヨーロッパは必要であるということを考慮するならば――というのは、ヨーロッパは、アメリカに利子を支払うのに、また合衆国が他の場所では売りさばけない商品をアメリカから購入するのに、十分なほど強力であり、同時に、アメリカに取って代って市場を支配するという意味では、またアメリカの拡張に抵抗するという意味では、アメリカにとって脅威ではない程度に十分弱体であるからだが(軍事的脅威や海洋上の脅威や上陸戦の脅威については言うまでもない)――、次のことが明白となる。すなわち、ヨーロッパに一定の範囲を割りあてた一定の境界線というものがあり、アメリカはこの範囲内にヨーロッパをとどめておかなければならないのである。

 これがアメリカの政策である。これによって、ヨーロッパに対するアメリカの抑止的役割が説明される。アメリカはまるで、相互に競争している各トラストに融資する用心深い大銀行家のごとくふるまっている。銀行家は各トラストのそれぞれから利子を得ようと思っている。トラストはお互いに競争している。それらは知らず知らずのうちにお互いを破産させるかもしれない。一つのトラストが破産すれば、別のトラストも破産する。これは銀行にとっては損害の危険性を意味し、したがってこうしたことを容認することはできない。そこで、かかる銀行家の政策はすべて、利子を確保することに帰着するであろう。もちろん競争をなくすことなく、である。なぜならば、競争をなくすことは、各トラストが合同し、銀行家の専制支配を抜け出て、その支配を脅かす可能性が生じるからである。他方では、銀行家は、トラストが相互に完全に破産してしまうような事態も容認することはできない。なぜなら、それは銀行家自身の儲けをもなくしてしまうからである。これは大雑把なたとえだが、基本的に正しい。そして、アメリカが実際に産業資本主義から、より高度な銀行高利貸しタイプの産業・金融資本主義へと移りつつあるだけに、なおいっそう正しい、と言える。このようなものが、ヨーロッパに対するアメリカの関係である。

 アメリカは、イギリスが二度と支配できないようヨーロッパ経済を支配している。なぜなら、今から見れば、イギリスの支配権は地方的な支配権であり、資源も乏しかったからである。こうした過程の中で、アメリカがまだ自らの可能性を完全に発揮していないとしても、だからといって将来もそれを実現しないというわけではない。

 革命によって妨げられないかぎり、アメリカ人が言っているように、アメリカはその可能性を100%実現するだろう。こうしたもとで現状はすでに以下のようになっている。イギリスは自国がほとんど独占していたゴムの価格を上げることによってアメリカから離れようとした時、アメリカは人差し指を立ててイギリスを威嚇する仕草をした。この威嚇の実際の効果に疑う余地はない。アメリカには強力な複合的制裁手段がある。経済的、金融的な制裁手段である。ポンド・スターリングは完全に合衆国の銀行に依存している。しかも、合衆国の力があまりにも大きいために、合衆国はそのすべてを動かす必要がないほどである。電気工学において、大量のエネルギーを方向づけるのにわずかなエネルギーを用いるだけでよいのと似て、アメリカ合衆国はちっぽけな借款だけでイギリスの路線を方向づけることができる。アメリカは必要なときにイギリスに金を握らせて、景気変動の影響からポンド・スターリングを守るのである。ドーズ案(5)によればドイツの借款は8億マルクないし4億ルーブルであり、これもわずかな額である。戦前の水準から見ても、いや現在のドイツの落ちた力から見ても、取るに足りない額だ。だが、アメリカがしたことは何か? ドイツを意のままに操つり、それに自分のスタンプを押した。これがアメリカのしたことだ! そして、こうした歴史に類例なき過程の枠内で、生産力と資金がアメリカの銀行からヨーロッパの債務者にある程度移るという事態が生じているとしても、これは単なるエピソードであり、それはアメリカの帳簿の貸借対照表にはまったく影響を及ぼさないのである。

 イギリスで上昇傾向が生じるだろうと予想する必要がある。これは疑いない。それはすでに始まっている。もちろん、イギリスには最も深刻な歴史的危機がある。これは1880年代に激しく起こりはじめたものであり、それは結局のところ戦争によっていっそう激化したのだが、この歴史的危機の上に多くの一時的、部分的危機がのしかかっている。最近、ポンド・スターリングの金本位制が復活したことが原因で、デフレーションの危機がイギリスで起こった。これは一般に病的な影響を及ぼすが、輸出国たるイギリスにとってはそれははるかに病的なものとなる。だが、公定歩合が急上昇したために資金流通量が発作的に収縮するような先鋭な時期が終われば、単なる病的な過程が残るだろう。まさにこれが現在イギリスで起きていることである。極端に悪化した時期の後にある程度の好転が不可避的に訪れると予見するのは困難なことではない。

 しかし、それは何を意味するか? それは曲線における技術上の湾曲を意味するのであって、その方向性の転換を意味するものではけっしてない。イギリスについて報告した人は実際にはあまりにも楽観主義的な言い方をしていたように思われる。この点では、イギリスの国際的役割の新たな強化について語ったファリクネル教授もそうである。イギリスが6億の借款を手に入れるためにニューヨークの事務所で帽子を手にペコペコお願いしていた以前の最悪の時期と比べれば、一定の好転が始まっていることは私も認める。しかし、この好転は、イギリスの引き続く事実上の零落という舞台の上で生じている。私の手元にはたまたま非常に興味深い一つの文書がある。その著者は新聞・雑誌で発表するつもりで書いたものではない(いずれにせよ、それは新聞・雑誌から手に入れたものではなく、別ルートで入手したものである)。これは、合衆国商務省の内外通商部長官であるクラインの秘密報告である。その中で、彼は、ヨーロッパの状況を特徴づけて、次のように言っている。ヨーロッパでは一定の好転が見られるが、もちろん、それはアメリカ資本の文明的干渉のおかげである、と。だが、この点には同意できない。私は次のようなアイゼンシュタートの意見に賛成である。アメリカ資本は強奪するために干渉したのであって、その否定的な特徴が若干なりとも変わるのはわが国がアメリカから借款を受け取る場合だけである。

 このようにクライン自身は秘密報告で述べている。そして、その中で彼は自ら進んでヨーロッパの状況を楽観主義的に描きだしている(こうした見地からならば、彼を5番目の報告者として招聘することもできよう)。彼はイギリスについてこう書き表わしている。「[それは]より一般的な意味で唯一の汚点である。もちろんのこと、フランスとイタリアの金融事情を除外するならばだが」――(われわれが2匹の小者を除外するならば)――だがその時には、「ドイツにおける相対的な復興の遅れ」という汚点が残るだろう(これもまた些細なことではない)。このように万事は総じてうまく行っている。ドイツにお金はない。フランスにもない。イタリアはまったく復興していない――「イギリスの商業状況も疑わしいように思える」。どうやら彼も慎重な経済学者らしい。私[クライン]もあまり悲観的になりたくはない。なぜなら、イギリスはわが国の最良の顧客であり、商業原則の最も有望な支持者であるからだ(この点は評価を裏切ることはありえない)。「しかし、イギリスでは、深刻に考えねばならないと思われる一連の諸要因が発展している」。いったいそれは何か? 「イギリスには恐るべき重税がある。何人かの観察者の意見によれば、その原因はとりわけお金に対する貪欲さ――丁重に表現すれば――にある」……。

 全体としての構図は完全に正しい。イギリスは、その特権的な地位から、それが資本主義の首位にいたことから生じた自らの経済的・技術的保守主義によって窒息している。以前はドイツがこの首位を奪い取ろうとしたのだが、今ではアメリカ合衆国が横取りしてしまった。こうした技術的・経済的保守主義という過去から受け継いだ体質は一歩ごとにイギリスを苦しめる。たとえばイギリスの電気工業は惨めな状況にあり、低い採算性しかない。アメリカに比べてイギリスの電気工業が陥っている絶望的な状態から脱出するためにボールドウィン(6)が電気工業や発電所の全体を統一するなんとか管理部を創設しようとしているといった通信が、最近わが国の新聞に載っていた。イギリスはこうした状況からの出口をいったいどの方向に見出すというのか? 合衆国が成長しつつあるもとで、イギリスの保守主義はますますはっきりと現われるようになってきている。イギリスの失業は正常な失業、すなわち産業予備軍の形成ではない。それは慢性の痛風と化した。この老衰した体では治ることはない。いったいどうして出口が見つかるというのか? 報告者のうち誰も出口を示さなかった。私にも出口は見えない。だからこそ私は、コンドラチェフ教授の予測を批判した人々が正しいと思うのである。どこからこの49年が出てきたのか? 循環理論から、大循環の理論からである。しかし、見られるように――そして私はこのことを証明するつもりである――、小循環でさえ慎重に扱うべきであるのだから、大循環はなおさらである。この大循環は、経済状況、経済過程の分析から引き出すことが可能だろうか? たとえ私が予測の分野では懐疑主義者でなかったとしても、唯物論的分析にもとづいて予測するかぎり、現在のわれわれの方法の水準からして、これほどの正確さをもって予測することはとうてい不可能であるということを認めなければならないだろう。にもかかわらず、資本主義に関する楽観主義者の予測は、15年の息つぎを資本主義に与えている。15年あれば、われわれに対しても多くのことをすることができる。いや、今夜の討論において、われわれは資本主義に15年もの息つぎを保証しはしないだろうと思う。

 ブクシパン教授はありうる展望の一つとして、ヨーロッパがますます貴族主義的商品[高級品]を生産し、それとは対照的にアメリカが民主主義的商品[大衆品]に特化するだろうと語った。しかし、イギリスは自分の商品をどこの貴族に売ればいいのかわからない。ヨーロッパはいったい誰に売るのだろうか? いったい誰がこの貴族主義的商品を吸収するのかを示さなければならない。こうしたことは現状からはまったくありえない。アメリカのためにヨーロッパは貴族主義的商品を生産するのか? いや、そうはならないだろう。アメリカは豊かであるにもかかわらず、ヨーロッパの奢侈品の輸入に関して非常に厳しい方針をとっている。とくに、わが国に対しては。いずれにせよ、ヨーロッパの役割が、アメリカの宝石商となることであり、アメリカの御婦人方に優雅な靴と扇子を供給することでしかないとしたら、もうヨーロッパもおしまいだ! だが数億ものヨーロッパ住民を殺すことはできない。

 合衆国の発展傾向はより不可解である。合衆国の発展傾向はまさに、ヨーロッパを、その予測がまったく明白であるような状態にした。つまり、アメリカ合衆国の圧力が不断に増大するもとでは、ヨーロッパの情勢は一時的に好転し、痙攣し、少し上昇する。だが合衆国に関しては、二者択一的に言うことができる。そこで2つの場合を仮定しよう。もし合衆国が今後10〜20年間、ないしはコンドラチェフ教授が資本主義世界に予定した15年間、経済的に成長することができるとすれば、もしアメリカ合衆国がこの15年間に、過去数十年間における発展テンポと同じテンポで発展するとすれば、何を犠牲にしてであろうか? 何よりもヨーロッパを犠牲にしてである。アメリカは、世界市場における過去の地位を取り戻す可能性をヨーロッパに与えないだけでなく、現在立っている地位からもヨーロッパを押しのけるだろう。アメリカの組織と技術を考えれば、このことはもちろん難しいことではない。

 アメリカ経済の発展テンポについて最近ヨーロッパ人が書いた文章を紹介しよう。ある経済学者は、実践的・理論的に、合衆国について次のように表現している――「アメリカの発展テンポは恐るべき脅威である」…。もしアメリカが今後15年間にいっそう発展していくならば、それはヨーロッパを犠牲にしてである。そして、これはヨーロッパにとって何を意味するだろうか? これは、ヨーロッパにとって革命的展望を意味するだろう。だがアメリカの経済発展の遅れは何を意味するだろうか? これはアメリカ軍国主義のすさまじい成長を意味するだろう。なぜならば、せきとめられた経済的蒸気は自ずからこうした方向に出口を見出そうとするからである。資本、重工業が大統領や政府や上院に「戦艦を建造せよ、計画を拡大せよ!」と要求するのは、まったく明らかである。そして、アメリカ人はフランスに軍縮を要求し、ソヴィエト連邦に軍縮を要求しながら、いかなる会議にも参加せず、そして自国の軍縮は望んでいないが、これも偶然ではない。アメリカ人にとっては、ドイツを軍縮させたワシントン会議で十分なのである。

 私はコミンテルンのある大会で、1925年頃には、アメリカの戦艦とイギリスの戦艦との関係で、アメリカとイギリスの衝突は不可避となろう、と言ったことがある。すでに1923〜24年には起こっていて当然なはずの革命をこの戦争の時点まで延期しようとしていると左派は私を非難した。しかし私はけっして革命を延期したのではない。なぜなら、私はそもそも革命を管理しているわけではないからである。私は単に発展傾向を確定しようとしただけなのだ。イギリスのヘゲモニーはその世界的地位と、海軍の巨大な優位性にもとづいていた。それは、重工業のための市場を作り出すだけでなく、軽工業と重工業のための市場を獲得する武器でもあった。中国人に無理やりインドからのアヘンを買わせることまでしたのである。イギリスとアメリカの戦艦建造計画によれば、イギリスは1923〜24年には第2位の地位に退くことになっていた。そこで私は、本当にイギリスは首位を明け渡すだろうか、この時に戦争が問題となるだろう、と言ったのである。しかしイギリスは戦うことなく引き下がり、外交的道をとった。この時私はこう自分に言い聞かせたのである。まず何よりも、今後イギリスは、2流の大国というわけではないが、現在の第1位の大国であるアメリカ合衆国に巨大な格差をつけられた大国であるということ、そして世界の基本的な対立はイギリスとアメリカ合衆国との間にある対立であり、それ以外のすべての対立――合衆国と日本、イギリスとフランス、フランスとドイツ――は2番目、3番目の対立である、と。アメリカ合衆国は剣を抜くことなく、銃を一発も射つことなく、ワシントン会議を一つ組織しただけで、首位を獲得した。合衆国は、人的な面でイギリスに劣っている自国の海軍をより完全なものにするよう努力を続けている。しかし、イギリスはその海軍の伝統が有する価値を実践において証明しなければならない。ドイツの海軍が[第1次世界大戦で]イギリスの海軍に対する質的優位性を証明したようにである(たとえ、量的には圧倒的に劣っていたとしても)。

 同志フェリドマンの論文の中では、合衆国の発展の歩みに関して対数曲線を使って考察されている。彼は次のような結論を引きだす。アメリカ合衆国の発展はますます袋小路にぶつかり、現在の上昇は過去数十年間の上昇とはおよそ比べものにならないほどわずかなものになる、と。もしそうならば、アメリカは、世界が平和的に発展していくなどとという展望を立てる根拠を与えないだろう。だが、アメリカが上昇するならば――アメリカに大変動が起こらないかぎり――、ヨーロッパは経済的袋小路に追い込まれ、ローマ帝国が腐敗した時のように腐敗していくか、革命的再生を経験するか、であろう。しかしヨーロッパの腐敗については、今のところ言う必要はない。もしアメリカの経済発展が遅れるならば、その巨大な力は戦争に活路を見出すだろう。これは、アメリカにとって、その経済発展の停止から生じたひずみを克服する唯一の可能性だろう。このひずみは核のような働きをする。巨大な力をもって解放され阻止されたこのような核は、国内において巨大な破壊をもたらすかもしれない。

 では次にプロレタリアートの状態に話を移そう。イギリスに関して言えば、イギリス・プロレタリアートのかつての貴族的地位は見る影もない。イギリス労働組合とわが国との兄弟的関係はイギリスの経済的衰退にもとづいている。特権的地位を占めているのは今やアメリカ合衆国の労働者階級である。もし経済発展が遅延するならば、それはアメリカにとって国内の力関係が大規模に変化することを意味し、したがってまた革命運動を――アメリカらしい急速さで――招来することを意味するだろう。かくして、アメリカがありうる2つのの場合のどちらに進もうとも、次の10年間に最大級の激変が起こるという展望になるのであって、平和的に発展していくという展望にはけっしてならないのである。最近、アメリカの『エコノミスト』に掲載された論文は次のように述べている。「われわれは、大規模な戦争を必要とするような発展水準に達した」。大都市の食事をまかなうためにはよく肥えた小牛が必要であるように、『エコノミスト』はこう明言する。アメリカ産業は、過去の戦争経験が示したように、大規模な戦争を必要とするような発展水準に達した、と。アメリカ帝国主義者は平和的発展などめざしてはいないのである。

 次にフランスである。フランスが順調にデフレ危機を乗り越えるというのは正しくない。なぜか? 始めのうちフランスには国民連合政府が存在したが、これは第一の時期と第二の時期においてインフレーションを極度に激化させ、小ブルジョアジーをだまして富を掠奪し、結局、彼らを離反させた。というのはインフレーションのおかげで小ブルジョアジーは損をしたからである。このために政権交代が起きた。国民連合は左翼連合に政権を譲らざるをえなくなった。なぜなら、国民連合は金融問題を解決できなかったからである。最初にエリオ(7)、次にパンルヴェ(8)(第1次と第2次内閣)、最後にブリアン(9)、である。フランスは豊かな国であるということ、これはある程度正しい。しかしこの国は社会的矛盾を悪化させ、小ブルジョアジーと農民にひどい損害を与えた。私は、ファリクネルが提示した、フランスの国民所得に関する統計を喜んで信用しよう。だが、一般的に言って、何らかの国の国民所得を計算することははなはだ困難であり、もちろん、こうした計算においては、計算者の気質や見地といった要素が若干の係数として入ってくる。私はけっしてファリクネルの権威や科学的誠実さに異議を唱えるつもりはない。私はそれについては疑っていない。しかし、データに対して批判的に対処することは可能である。より慇懃に言えば、それは当該問題の基本的な設定に依拠しているのである。フランスでは債務が問題となっている。その解決のためにはこれまでのところ何も行なわれていない。ところがアメリカはこの問題の解決をフランスに迫っており、フランスはアメリカなしにはやっていけない。では、いったい解決の道はどこにあるのか? フランスは豊かな国である。持っている者もいれば、持っていない者もいるという意味で。しかし、持っている者は与えたがらず、持っていない者は与えられない。もし労働者階級からもブルジョアジーからも身ぐるみ剥ぐならば、最大級の意見の不一致と非難を引き起こすだろう。フランスの小ブルジョアジーは、革命的伝統を有している。ポアンカレ(10)やクレマンソー(11)やミルラン(12)は本当は権力を愛している。それにもかかわらず、彼らは、熱いラードを少し経験した後、次々と辞めていく。なぜなら火傷するとわかっているからである。フランスにおいては、パリ・コミューンの理念を有した革命的スペクトルとしてのプロレタリア政党がたとえ弱体であっても、たとえ労働組合が弱体であっても、戦争で息子と貯えを失った小ブルジョアジーと農民がその巨大でダイナミックな革命的力をたちまち発揮する可能性がある。たしかに、ブルジョアジーや銀行や冶金工業に無理やり迫ればデフレーションを達成することができるし、彼らに支払わせることができる。しかし、そんなことをすれば、公定歩合の恐るべき高騰、資金流通量の収縮、工業の恐慌をもたらすだろう。なぜなら、フランスには大きな債務と通貨危機があるからである。それゆえフランスの政治家は、デフレーションの問題に関して、わがソヴィエトの教授諸君ほど楽観的にはなれないのである。

 それでもやはりヨーロッパは難局から抜け出す何らかの出口を見出すだろう、と言う者がいる。たしかに、ヨーロッパはすでに、1918年11月や(ポアンカレがルールを占領した)1923年1月のような状況にはない。このような状況は長期にわたって続くものではないし、それと結びついていた困難も今では克服されている。ヨーロッパは生きている。だが難局を克服する方法とは次のようなものだ。ワシントン会議、ヨーロッパを場末に追いやり、イギリスの状況を(ついでヨーロッパ全体の状況を)悪化させること、ドーズ案を通じてヨーロッパをアメリカの紐で結わえること、である。一時的には、これは疑いもなく、絶望的な状況からの、戦争状態からの出口である。しかし長期的に見れば、これは、ドイツが、辛うじて一息ついた後に再び窒息する状態に陥ることを意味する。2年前、ドイツの工業はすさまじい勢いで発展したが、今や恐るべき恐慌が存在し、多数の企業が倒産し、輸出向け工場が売りに出され、失業者は何百万人にものぼっている。ドイツとヨーロッパの絶望的な状況を特徴づけるのにこれ以上明白な事例があろうか。ドイツは戦前、巨大な融通性と順応性を有していた。その後のイギリスの圧力と戦争によって、ドイツは倍する融通性を身につけた。ドイツの資本家は、こうした経験からわずかな利益に満足するようになり、労働者は、恐るべき飢饉の数年間の後わずかな賃金で満足するほど従順になったにもかかわらず、恐るべき恐慌はなくなりはしなかった。これこそ、ヨーロッパの出口なき状態を示すものではないか?

 さて、ワシントン、ロカルノ、ドーズ案から始まって、はてはヨーロッパ合衆国にまで話が及んだが、私は、ファリクネル教授の言葉から判断すると、この理論の使徒のようなものであるらしい。だが少し違う。ファリクネル教授が私の書いたものを覚えてくれたことには感謝するが、私はこれについて少し違った言葉で語った。ここでは、ファウストがグレートヒェンに説明したときに起きたことと似たことが起きたのである。ファウストがかなりジャコバン的で無神論的な趣旨の発言をしたとき、グレートヒェンはこう言っている。「あなたは教会で牧師が言ったことと同じことをおっしゃるのね。ただし少し言葉が違うけれども」――牧師は教会で違うことを言ったのである。私が言ったのはヨーロッパ社会主義合衆国とプロレタリアート独裁についてである。袋小路に追い込まれたヨーロッパは[国境と関税という]内的な障壁に耐えられないだろうと考えて、こう言ったのである。このヨーロッパの現状とアメリカの成長とはわれわれの予測を確認するものである。われわれは言ってきた、現在の障壁と細分状態が続くかぎりヨーロッパの状況に出口はない、これはヨーロッパのバルカン化である、と。このことについては私はコミンテルン第2回大会で指摘している。私が引用したリュデック・デーカは、バルカン化したヨーロッパはアメリカの圧力のもとで朽ち果てつつあると主張している。同じことが、最近出版されたドイツ人ブルジョアの本でも言われている。こうして、一方ではブリアン、他方ではドイツ人が、競争相手の打倒と市場の拡張のために血の川を流したあとで、今やヨーロッパ合衆国について語っているのである。これはつまり、ヨーロッパが完全に衰退し、発展の可能性を信じられず、合衆国の増大する力を前にして自らの無力さを自覚しているということである。小ブルジョアジーはおずおずと何らかの統一を夢想している。ただし、反撃のための統一ではなく、せいぜい生存するための統一である。贅沢はできずとも、生きていければよい、というわけだ。これが、ヨーロッパの現在の支配者の心理である。私は彼らに関して楽観主義的にはなれない。

 次に、ソ連邦の経済状況について若干述べておこう。もちろん、わが国は世界の発展に対してまだ最小限の影響しか及ぼしていない。今までのところはまだ、わが国は世界市場にきわめて控えめな規模でしか進出していない。しかし、社会主義ヨーロッパにとってわが国は決定的な意義をもつことになる。わが国と手を結んだ社会主義ヨーロッパは、アメリカ合衆国にとって打ち破りがたい存在となるだろう。だが、もしわが国が敵対的な後背地であったならば、資本主義アメリカを前にして、プロレタリアートのヨーロッパは無力である。逆に、プロレタリアートのヨーロッパが、わが国のような強力な後背地を有しているならば、わが国と統一して社会主義連邦、社会主義合衆国となって、アジアに対する巨大な吸引力を発展させるだろう。そして、わが国とヨーロッパ社会主義合衆国とが連合しているもとで、わが国が手ごろな価格でアジアに商品を渡し、アジアを完全に自分の味方につける場合には、社会主義ヨーロッパからの輸送路はソ連邦を通ることだろう。そうなればアメリカはヨーロッパを脇に退けることはできない。ヨーロッパ合衆国対アメリカ――これはまったく現実的な展望であり、したがって、このような予測を立てることは可能なのである。

 もし現在、資本主義世界が新しい有機的上昇の可能性に当面しているとしたら、そして経済力のさらなる発展にとっての基礎となる新しい経済的均衡を見出したとしたら、これは、わが国が社会主義国家としては滅亡するということを意味する。理論的・実践的に、このことは簡単に証明することができる。まず理論的にだが、ヨーロッパにおける資本主義の上昇は、ブルジョアジーにとっての巨大な技術を創造し、プロレタリアートの心理を変えてしまうからである。つまり、資本主義が国民経済を上昇させえるということをプロレタリアートに証明するならば、これは、革命を起こそうとし撃破され失望を味わった労働者階級に影響を及ぼさないわけがない。もし資本主義が経済を上昇させるならば、資本主義はプロレタリアートの心を再びつかみ、労働者大衆を自らに従えるだろう。理論的見地からみて、社会主義に生存する権利があるのは、まさに資本主義が生産力をもはや発展させえないからである。わが国の革命はある一定の経済的基礎にもとづいて生成してきたのであり、われわれは世界経済の基本的な一部分として革命に到達したのである。もし資本主義が生産力を発展させえることを示すならば、これは、われわれが基本的な診断において誤っていたということ、資本主義は進歩的な力であり、わが国よりも急速にその力を発展させるということ、われわれは早く登場しすぎたために、歴史は時期尚早に生まれてきたものを非常に厳しく取り扱うであろうということ、を意味する。資本主義にとって楽観主義的な予測がもし根拠あるものならば、まさしくこういうことになるのである。だが、それは根拠ある予測であろうか? 証明することは難しい。今までのところブルジョアジーはこのことを証明しなかったし、証明できていない。ヨーロッパでは生産力は発展していない。生じているのは変動であり、現存する生産力の解体である。これが基本的な事実だ。したがって、社会主義には生存し発展する権利があるし、勝利を大いに希望する権利があると言わなければならない

 われわれに最も近く危険な存在であるヨーロッパ資本主義は、戦後の毎年毎年、ヨーロッパが生産力を増大させていないということを証明している。アメリカ合衆国は、もし経済の社会主義的組織方法をアメリカの技術に適用したならば可能であったろうほどには生産力を増大させていない。もしアメリカの規格とフォードのコンベアー原理に社会主義的方法を適用したならば、生産力は何倍も急速に成長するだろう。

 ヨーロッパにおいては生産力はまったく成長していない。

 われわれが検討してきた問題には新しいアプローチが必要である。抽象的な理論的アプローチではなく、生産合理化推進者のような断固たる意志にもとづいたアプローチである。ヨーロッパの惨めな状態、ヨーロッパに対するアメリカの圧力を解明し、こう問わなければならない。世界経済を組織するためには、ヨーロッパとわが国において、そして何よりもアジアにおいて何をなすべきなのか、と。

 この問題はわれわれの置かれている状況から必然的に出てくるものである。遅かれ早かれ歴史はこの問題を設定するだろう。そしてわれわれは今や、理論的にこの問題を自らの前に設定しなければならない。

1926年1月18日

『計画経済』第1号、1926年1〜3月

『トロツキー研究』第11号より

  訳注

(1)ヒルファーディング、ルドルフ(1877-1941)……ドイツ社会民主党指導者、オーストリア・マルクス主義の代表的理論家。ワイーマール共和国時代に蔵相。『金融資本論』など。

(2)コンドラチェフ、ニコライ(1892-1935)……ソ連の経済学者。ソ連の景気循環研究所の所長。50年周期の大循環理論を確立。晩年、スターリンによって弾圧される。

(3)キチン、ジョゼフ(生没年不明)……アメリカの経済学者。1923年の論文で、キチン曲線といわれる3〜5年周期の「小循環」を発見。この小循環は、在庫投資の波によって生じるとされている。

(4)1923年6月の論文「資本主義の発展曲線」のこと。

(5)ドーズ案……チャールズ・ドーズ(1865-1951)はアメリカの実業家で政治家。1923年にドイツの経済・金融問題の専門委員会の長となり、ドイツの賠償支払いと経済復興の計画案を策定した。これがドーズ案である。その功績によりドーズはノーベル平和賞を受賞した。

(6)ボールドウィン、スタンリー(1867-1947)……イギリスの保守党政治家。1923〜24、1924〜29、1935〜37年と首相。

(7)エリオ、エドゥアール(1872-1957)……フランス急進党の指導者。1916年から無任所大臣。1924〜25年に首相。

(8)パンルヴェ、ポール(1863-1933)……フランスの政治家。フランス科学アカデミー会員。ドレフュス事件でドレフュスを擁護。1917年と1925年に首相を経験。

(9)ブリアン、アリスティッド(1862-1932)……フランスのブルジョア政治家。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめる。1920年代には反ソ政策を推進。

(10)ポアンカレ、レイモン(1860-1934)……フランスのブルジョア政治家。1912〜13年にフランスの首相兼外相として軍拡を推進。1913年にフランスの大統領。22〜24年に再び首相。1923年にドイツのルール地方を占領。1924年辞職。1926年に再び首相。

(11)クレマンソー、ジョルジュ(1841-1929)……フランスのブルジョア政治家、急進党の指導者。1902年に上院議員、1906年に内相。同年に首相に就任したが、急進主義を捨てる。対ドイツ対決政策を推進し、軍備増強。第1次大戦中は、政権の弱腰を批判し、大戦末期に首相になるや、独裁権を行使して戦争遂行に邁進。

(12)ミルラン、アレクサンドル(1859-1943)……フランスの政治家。急進社会党から独立社会党に移行。独立社会党の議員であったときに、ヴァルデク・ルソー内閣に入り、社会主義陣営から厳しく批判され、ミルラン主義という言葉が作られた。1919年に首相。20〜24年に大統領。


  

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