労働者通信員とその文化的役割

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、トロツキーが労働者通信員(ラブコル)について書いたり演説した一連の文献の一つである。トロツキーは、ソ連の文化水準を高め、民衆の中に個性と自主性を育て、官僚主義やさまざまな乱脈と闘う最も重要な武器の一つとして、労働者通信員(および農村通信員)の活動を見ていた。この論文は、こうした観点に立って、きわめて体系的かつ多面的に労働者通信員の役割について述べている。それは、文体や叙述形式から、日常生活やプロレタリア文学や性の問題に至るまで、実に多方面にわたって論じている。それらの記述の中に、読者は多くの興味深い指摘を学びとることだろう。

Л.Троцкий, Рабкор и его культурная роль, Сочинения, Том.21, Культура переходного период, Мос-Лен., 1927.

Translated by Trotsky Institute of Japan


  文化水準を引き上げるテコとしての労働者通信員

 同志諸君、労働者通信員の任務の問題は労働者階級の文化的水準を引き上げる問題と密接に結びついている。わが国で現在ぶつかる問題のすべては、小さいものも大きいものも、この根本的な課題にもとづいている。共産主義者であるロシア共産党員は国際主義的革命家であり、そうでありつづけている。しかし、ソヴィエト共和国の課題に適応する際には、彼らは何よりも文化啓蒙活動家である。

 革命前、「文化啓蒙活動」という言葉はわれわれの間で軽蔑的な、ほとんど罵倒的な意味合いを持っていた。「あいつは文化啓蒙活動家だ」という言い方は、ほとんど重要性を持たない活動家のことを指して使われた。当時われわれは正しかったろうか? しかり、正しい。なぜなら、ツァーリズムとブルジョア国家のもとでは、最も主要な文化活動は権力獲得のためにプロレタリアートを団結させることだったからであり、権力の獲得だけが真の広範な文化活動のための可能性を切り開くものだったからである。

 ドイツ社会民主党、すなわちドイツのメンシェヴィキはヒルファーディングという名の理論家を有している。先日、ドイツ社会民主党の理論誌において、彼は次のような趣旨の論文を書いた。われわれドイツ社会民主党員は、ドイツ共和国内部での革命的活動を拒否する。今後われわれはドイツ労働者階級の文化的発展に精力を注ぐだろう。一見したところ、彼はわれわれが言っているのとほとんど同じことを言っているように見える。すなわち、主要な仕事は文化啓蒙活動だ、と。両者の違いはどこにあるのだろうか? 違いは、ドイツにおいてはプロレタリアートはまだ国家権力を獲得しておらず、したがって、ドイツ・プロレタリアートの文化活動は生産手段の私的所有とブルジョア権力の存在によって制限されている、という点にある。そして、権力を有しているブルジョアジーは出版社、本、学校、図書館、等々を支配しており、ブルジョアジーが必要であるとみなした場合にしかその一部を労働者階級に割り当てておらず、しかもブルジョアジーに有利な条件で割り当てている。

 たしかに、この点に関してはわれわれも貧しいと言われるかもしれない。しかし、わが国が学校、本、新聞の点で貧しいのはなぜだろうか? それは、わが国が全体として貧しく文化的に後進的だからであり、何につけほんのわずかなものしかわが国にはないからである。しかし、わが国には、階級的障壁や国家の側からの妨害は存在しない。すなわち、プロレタリアートの文化的発展の手段を切り縮めることに利害関心を持っているような国家権力はわが国にはない。なぜなら、わが国にあるのは労働者階級の権力だからである。

 ウラジーミル・イリイチは、その最後の諸論文の一つ[「量は少なくても質のよいものを」]で――私は以前どこかでこの論文について言及したが――こう説明している。権力の獲得とともに、社会主義への接近の仕方そのものが急転換する、と。ブルジョアジーの支配がつづくかぎり、社会主義のための闘争は権力の革命的獲得のためにプロレタリアートを団結させることを意味する。つまり、われわれのなすべき第一のことは未来への扉を開かさせることだ! しかし、いったん権力が獲得されたならば、勤労大衆の文化的水準を引き上げることが必要になってくる。なぜなら、未発達の文化にもとづいて社会主義を建設することはできないからである。もちろん、ドイツ・プロレタリアートにとって、権力獲得後の文化活動はわが国よりもはるかに容易なものであろう。しかし、われわれは、わが国の過去の歴史全体がわれわれに課した条件のもとで活動しなければならない。そして、わが国の歴史とは、野蛮な抑圧、後進性、貧困、非文化性の歴史なのである。自分の頭を飛び越すことはできない。過去の遺産は克服されなければならない。

 革命が現在までに与えてくれた最大のプラス、最大の成果は(そして、諸君も知っているように、革命は目的そのものではなく、単なる手段である)、文化に対する激しい欲求を勤労大衆の間に目覚めさせたことである。わが国の非文化性に対する羞恥心と向上したいという欲求、これこそ革命が引き起こした主要なことである。しかも、これはかつて見られなかったほどの規模で起こっており、数百万、数千万の人々を巻き込んでいる。

 文化に対するこうした欲求は、もちろんのこと、青年の間でとりわけ強い。疑いもなく、未成年者の間での非識字率は減少している。このことは、新しい軍入隊者の中で見られる。しかし、非識字と識字の間には、半識字ないし不十分な識字とも言うべき一つの段階がある。多くの者がこの段階にとどまっている。現在、軍隊の中にも、青年労働者の中にも、とりわけ農村青年の中にも、このような部分的な識字者が多数いる。わが国の新聞は、このような半識字者を把握し、日常的な読書へと彼らを導き、時には義務づけ、読書することを学ばせ、識字の程度を高め、それを通じて彼らの視野を広げなければならない。このことはわれわれが現在論じている問題へとわれわれを導く。

 労働者階級は文化の必要性に目覚めた。そして、労働者通信員はこの階級的目覚めを表現するものの一つである。この点こそが、労働者通信員の組織とその他の著述家集団との根本的な相違である。労働者通信員は、草の根レベルで、新しく目覚めた労働者階級の最も身近で直接的な表現手段である。これこそが、労働者通信員の活動の意味、彼らの役割、彼らの関心の幅を測り、決定する。労働者通信員は、労働者階級が生活し呼吸するあらゆるものに興味関心を持ち、自らのペンをテコとして用いる。それは小さなテコである。だが、労働者通信員は多数いる。つまり、労働者大衆の文化を引き上げる多数の小さなテコが存在するということである。

 

  考えと叙述

 もちろん、文化的テコとしての役割を首尾よく果たすためには、労働者通信員は書くことができなければならない。これは容易なことではない。まったく容易なことではない! 書くことができるということは、もちろんのこと、単に文法を理解することができるということではない。それは何よりも、自分自身の考えが何であるかがわかる能力、自分が言いたいことはいったい何であるかと自問する能力を持っていることを意味する。同志諸君、このことをよりしっかりとより真剣に自分に問いただすことを学ばなければならない。これは最も難しいことだ。ペンとインクと紙を取り上げ、インクにペンを浸し、何かを――読者が暇つぶしに読むようなものを――書きつけることは、非常に簡単なことである。だが、これでは不十分である。これは叙述活動ではないし、労働者通信員の活動でもない。

 たしかに、正直に言うと、わが国にはまさにこうしたやり方で書かれた新聞記事は少なくない。そのため、新聞「お役所主義」とでも言うべき病はかなり広がっている。ジャーナリストが読者を理解するすることなく、したがって、何を書くべきかについて漠然としかわかっていない場合には、決まり文句や「空文句」や紋切調が必然的に紙面に登場することになる。言いにくいことだが、そうである。自分の考えを特定し、当該状況の中で当該読者にとって何が必要で何が必要とされているかを見つけだす能力、これこそ、新規の労働者通信員を含むあらゆる書き手が自分に課さなければならない要求である。私はこの点を大いに重視したい。まず第1になすべきことは、自分が何について、どんなことを言いたいのか、誰のために、そして何のために言いたいのかを念入りに自問することである。これは残りすべての前提条件である。どのように叙述するかという問題も、きわめて重要な問題である。だが、それは2番目の問題でしかない。

 最近、私は、文体について、労働者通信員に聞かせることを意図した多くの議論を目にした。もちろん、これは問題の非常に重要な側面である。しかし、このテーマに関する議論の中には少なからぬたわごとも見られる。たとえば、「単純に、プロレタリア的に書け」と勧めることで、何か利口なことを言ったかのように考えている者がいる。だが、「単純に」書くとはいったいどういう意味か? 単純に書くことはけっしてそれほど単純なことではない。

 このようなアドバイスは、基本的に過去の時代に由来している。すなわち、革命的インテリゲンツィアが大衆に接近し、「もっと単純に、もっと明確に、もっと具体的に、書け話せ…」と言われていた時代に由来している。もちろん、このようなアドバイスは多くの場合、今日においても繰り返す価値がないわけではない。しかし、他ならぬ労働者通信員に対して「単純に書け、文体を追求するな」と言うことは、問題の核心を完全に外すことになるだろう。「単純さ」だけではまったく不十分である。能力が必要であり、技術が必要である。自分たちの叙述方法、自分たちの文体をみがくことが必要である。これがなすべき仕事であり、これが果たすべき課題であり、これがやるべき学習である。

 では、どのようにアプローチするべきか? この問題に関してもかなり奇妙な助言が見られる。私のことを持ち出して助言している例すらある。ある同志は労働者通信員に次のような教訓を垂れている。すなわち、あたかも私が自分の文体をみがくために、特別のペンを用い、特別の種類の紙を使用し、「夢中になって――と彼は書いている――ペンが紙にぶつかりストップする」(拍手、笑い)かのように述べている。私はこの部分を読んでびっくり仰天してしまった。いったいこのような話がどこから出てきたのか? 労働者通信員の同志諸君、より若い書き手の諸君、次のように言うのを許していただきたい。文体をみがくことは、ペンによってでも紙によってでもなく、意識によって、頭によってなされるのである。まず何よりも、自分が何を言いたいのかを自問せよ。これが第1の条件であり、叙述、形式、文体の観点からしてもそうである。

 誰しも、自分の知っている問題、自分がよく通じている問題に関しては、それなりに雄弁である。もちろん、ある人の叙述はより明晰で、別の人の叙述はより生彩に欠けるであろう。書き手の気質は人によってさまざまである。しかし、ある特定の問題で自分が何を言いたいのかがはっきりしている場合には、そして単に書きたいから書くのではなく、何かを成し遂げたいがために書く場合には、すなわち、記事が単に自分の虚栄心を満足させる手段(「ほらここに、私イワノフのサインが記事にあるぞ」)ではなく、何らかの社会的責務を果たす手段(「私はこれこれの嘘やこれこれの乱脈を暴露しなければならない」、もしくは反対に、「私はこれこれの功績について言わなければならない」)である場合には、半分読み書きできない人々ですら、説得的にはっきりと叙述するだろう。文体の向上が、人民を行動に駆り立てるような原動力や社会的目的なしに、形式的な手段だけで可能になると考えることは、大きな誤りである。われわれ革命家は、執筆活動の分野においても、行動する意志に、すなわち、何かを変革したい、何かを実現したい、何かを達成したいという意志に、優先権を与える。文体をみがこうとする努力もこの目的に従属しなければならない。

 新聞記事はいかなる要素によって構成されているか? 2つの要素があり、どちらも等しく必要である。一つは事実であり、もう一つは観点である。事実なしには、真の報道はない。このことはしっかりと念頭に置いておかなければならない。報道の基礎には生きた具体的な、しかもより新しい事実――たった今起こったことや、2、3日前か最近に起こったこと――がなければならない。しかし、興味深い事実に気づき、それを取り上げることができるのは、労働者通信員が何らかの観点を持っている場合のみである。しかも、事実を読者に提示することも、何らかの観点のもとで可能かつ必要になる。こうすることではじめて、報道はしかるべき教育的力をもつことができる。生きた現実と正しい観点とのこうした結合こそが、労働者通信員にとっての、そして一般にジャーナリストにとっての、執筆技術の本質を構成している。

 もちろん、事実とその評価のどちらがより重要かと問うことはナンセンスなことである。どちらも必要だ。何らかの観点でもって事実を消したり、窒息させたりするなかれ! まず第1に、事実をしかるべく正確に興味深く述べよ。読者の頭を説教話でもって打つな、読者の襟首をつかんで無理やり自分の結論に持っていくな。事実のうちに見いだせるものを正しく読者に提示し、おのずから結論が出てくるような形で事実を叙述せよ。そしてこの結論を、それが示唆されていることがわからないような形で示唆せよ。もちろん、これは高度な技術であり、本格的な新聞記者になりたいと思う労働者通信員はすべて、この技術を習得すべく努力しなければならない。自分の文章を熱心に推敲し、自分の現在の到達点にけっして満足することなく、他人から学び、読者を通じて自分の力量を点検し、自分の知識・視野・語彙を広げながら、一歩づつこの道を進んでいくしかない。

 よい叙述には、何よりも内的論理がなければならない。首尾一貫して事実を提示し、自分の考えを展開しなければならない。そのためには、読者をしかるべき結論へと導いていくあらゆる段階を通じて自分自身の考えを読者に理解してもらえるようにしなければならない。自分のテーマを首尾一貫して展開するのではなく、そのテーマに何らかの形で関連するバラバラの考えや事実を読者や聴衆に投げつけるようなジャーナリストや演説者に会うこともまれではない。このようなだらしのない叙述方法は、だらしのない健康管理が体に破壊的な影響を与えるのと同じように、思想に破壊的な影響を与える。このような演説者の話を聞いたならば、それが若者であっても、「これでは前進は望めない!」と諸君は言うだろう。なぜなら、問題を誠実かつ徹底的に吟味する場合のみ、前進が可能になるからである。そして、このことは叙述のうちに現われる。いかに単純な問題であっても、よく考え抜くならば、叙述は首尾一貫して新鮮なものとなる。しかし、すべてを紋切的表現や美辞麗句や「空文句」に還元するならば、そのうえにペケをして「不可」と書かなければならない!

 何かを書く際には、自分の記事が自分の職場ないし隣の職場、ないし近くの工場で声に出して読まれるのだということを、はっきり念頭に置いておこう。10人かそこらの労働者ないし一般市民がどのように自分の記事を受け取るかを想像しよう。この記事が彼らにどのように彼らの意識の中に入っていくかを冷静かつ誠実に考えよう。また別の角度から言うと、諸君が職務怠慢や乱脈について暴露した当の人々がその記事を読むのだということをはっきり念頭に置き、こう自問しよう。この記事が行きすぎているとか、誇張しているとか、歪曲しているとか、間違えているとか、事情を正しく理解していないとか言われないような内容であるかどうか、と。実際にこのような罪を犯していないかどうか、記事を掲載しない方がよくないかどうか、またしても事実をしかるべく検証しているかどうか、自問しよう。誠実さは労働者通信員にとって最も重要な資質である。それなしには、他のすべての資質は無価値である。諸君の記事が誤りを含んでいたり、誇張していたり、単に偽りであったりした場合が1度、2度、3度とあるなら、それは諸君の、たとえば労働者通信員ペトロフの信頼を掘りくずすだけでなく、遅れた読者の間では、印刷された言葉全般に対する信頼をも掘りくずしかねない。労働者通信員の諸君、新聞記者としての自分自身の評判に関心を払うだけでなく、それとともに、ソヴィエト・メディアの名誉と成果の守り手としての自己の責務をも忘れるな!

 もちろん、以上の点は叙述や文体の問題を越えている。しかし、両者はそれでもきわめて直接的に結びついている。かつて、ある賢明なフランス人作家は「文は人なり」と述べた。つまり、文体は外的なものでも表面的なものでもなく、内的なもので、その人の性格や水準、意志や誠実さを表現しているということである…。文体をみがくためには、考え行動する人間としての自分自身をみがかなければならない。そして、この過程においては、同じ場所で足踏みしていてはならない!

 

   通俗性と平易さ

 叙述は、もちろんのこと、常にできるだけ平易なものでなければならない。しかし、またしてもこれはきわめて難しい問題である。平易さの程度は叙述の仕方に依存しているだけでなく、何よりも議論されている問題の性質にも依存している。この問題をより詳しく見るために、『ラボチャーヤ・ガゼータ』に送られてきた私宛ての公開状について紹介したい。この公開状はその新聞の編集部が私に見せてくれたものである。ここでその公開状の主要部分を引用しよう。

 エリ・トロツキー宛てのこの公開状を掲載していただくよう私は『ラボチャーヤ・ガゼータ』編集部にお願いしたい。わが国のプロレタリア的労働者新聞の労働者通信員として、私は、通信員および文化啓蒙活動家としての私に悪影響を与えているものごとに沈黙しておくことはできない。私は非常にしばしば『プラウダ』(これも私の購読している新聞だ)紙上で、労働者の日常生活、プロレタリア文化、芸術、党の芸術政策等々に関するトロツキーの諸論文を目にする。これらの論文は現在の時期において非常に重要であり、論じられていることも興味深い。だが、すべての人にとってそうであるわけではない。「すべての人」というのは、労働者のことだ。つまり、これらの論文が労働者にとって興味深くないということではなく、反対に非常に興味深いものであるが、非常に遺憾なことに、十分に理解されているわけではない、ということだ。そして、それらの論文が理解しにくいのは、もっぱら、科学的用語や言葉があまりにも盛り込まれすぎているからである。

 たとえば、第209号の論文「党の芸術政策」には、「クリテリア(基準)」、「メタフィジカ(形而上学)」、「ディアレクテクティカ(弁証法)」、「アブストラクツィヤ(抽象化)」、「アンタゴニズム(対立)」、「インディヴィード(個人)」等々といった言葉が含まれている。これらの言葉はいずれも、読者の側の一定の準備と高い教育を必要とするものばかりだ。平均的な読者、とりわけ労働者にとっては、これらの言葉は理解しがたく、したがって当然のことながら、ほとんど興味がもてない。それゆえ、僭越ながら同志トロツキーにお願いしたいのだが、こうした論文をもっと書いてもらいたいが、前述した外国語を差し控えて、平易で通俗的なロシア語に置きかえてもらいたい。そうすれば、これらの論文は、わが国の後進的な労働者読者が渇望しているような精神的糧となることができるだろう。 

クリャチコ (1923年)9月25日

 この手紙は、ご覧のように、かなり古いものだ。私はこの公開状に、やや遅くなったとはいえ、この場を借りて回答したい。もっとも、この場合は時間は重要なものではない。なぜなら、通俗性の問題は、一時的ないし一過性の意義を有しているわけではないからだ。

 もちろん、私は同志クリャチコの言っている諸論文が平易であるとか、それらが、より理解しやすい言葉に置きかえ可能な余計な外来語や外国語表現を含んではいない、などと証明するつもりはない。おそらく、いや間違いなく、これらの論文にはそのような罪や過ちがあるだろう。だが、それにもかかわらず、通俗性の問題の核心はここにはない。すでに述べたように、文体は、人がどの程度その物事に通じているか、その人が何を言いたがっているのかに著しく依存している。基本にあるのは考えであり、行動への意志である。文体は道具的な手段としてのみ発展し力を発揮する。同じことは通俗性にもあてはまる。それは自己目的ではなく、目的のための手段である。叙述の仕方は論じられている問題に、その複雑さないし単純さの程度に対応している。もちろん、まったく余計な外来語を詰め込みすぎて、最も簡単な考えをこんがらがせることもできる。しかし、総じて難しさは言葉にあるのでも、そもそも叙述の仕方にあるのではなくて、問題そのものにある。

 たとえば、マルクスの『資本論』を取りあげよう。外来語をなくして通俗的な言葉でそれを書くことができたろうか。いやできない。なぜか。テーマがきわめて複雑なものだからである。もしわれわれが『資本論』にあるすべての外国語を自国語に置きかえたとしても、『資本論』がより理解しやすくなることはけっしてないだろう。なぜか。テーマが複雑だからである。では、どのようにして『資本論』にアプローチするべきか。より簡単な本をいくつか読む努力をせよ。知識をたくわえて、その後で『資本論』に取り組もう。主要な難しさは問題の複雑さにあるのだから。

 だが、それだけではない。もし『資本論』にある外来語を純ロシア語に置きかえたとしたら、叙述はより明確にならないだけでなく、反対に、より複雑になるだろう。学問用語(言葉、記号)というものは一定の厳密な概念と結びついている。これらの確立された用語を何らかの多少なりとも近いロシア語に置きかえたとすれば、この用語の厳密さは失われ、叙述はより曖昧になるだろう。これらの必要な用語を説明し、その後これをあれこれの機会に繰り返して使い、このようにして読者ないし聴衆の意識の中にこの用語を導入する方がいいだろう。対象となっている問題が労働者の経験から直接出てくるものである場合、非識字者でも十分に理解しうるぐらいに叙述を簡単にすることは常に可能であるし、必要である。だが、対象となっている問題が個々の労働者の経験から直接出てくるものではない場合、たとえば、数学や一般科学や哲学問題のような場合、叙述の仕方のみで十分に平易なものにするのは不可能である。そのためには準備が必要であり、入念に選ばれた図書が必要である。この図書は労働者にとって上に昇っていく階段となるだろう。そして、各々の本が階段のステップとなるだろう。

 後進的な労働者読者にとって最初のステップは当然のことながら、地元の労働者通信員の記事でなければならない。政治的・理論的に教育を受けた先進的な労働者はどのように新聞を読むだろうか。彼らはまず最も重要な外電から読みはじめ、世界のどこかで革命闘争の先鋭化や議会紛争、政権の交替、新しい戦争の危険性、等々が見られないかどうか知ろうとする。このように、彼らはまずもって大きな円周の問題からはじめる。それに対して、一般労働者はどのように新聞を読むだろうか。彼らはまず、自分の職場や自分の工場関係の記事、ないし近隣の工場、最も近しいクラブ、最後に、自分の住んでいる地域や都市全体に関する記事から読みはじめる。このように、一般労働者は小さな円周からはじめる。円周が小さくなればなるほど、興味関心は増大する。なぜなら、論じられている諸事実がますます自分たち自身に身近にかかわるものになるからである。

 わが国のすべての文化啓蒙上および政治教育上の諸課題と諸矛盾は、これら2つの円周の中におさまる。一つの円周は巨大で、地球全体を、その実生活と闘争のすべてを包含する。もう一つの円周はきわめて小さく、自分たちの足元のことのみを取り上げる。最も先進的な分子、経験と教育を積み、よく読書をする闘士は、前者の円周に興味を持つ。後進的な労働者と圧倒的多数の農民の興味関心は後者の円周、すなわち小さな円周に限定されている。この小さな円周と大きな円周との間には、一連の中間的な同心円的円周が存在する。それらは階段のステップとみなすことができる。新聞の課題は、読者の興味関心を広げ、彼らを小さな円周から、一歩づつ、一段づつ、大きな円周へと導くことである。労働者通信員は、読者を教育し読者の視野を広げるというこの仕事において、きわめて重要な位置を占めている。労働者通信員は読者に接近し、日々彼らを観察し、彼らの興味関心の発展を追い、この発展を助け、その新聞記事の円周を広げ、絶えず実生活と本から学びながら、常に自分の読者に先んじているようにしなければならない。

 

   労働者通信員はソヴィエト体制の構成要素である

 われわれが常に次のことを念頭に置いておかなければならない。すなわち、新聞を読んでいない労働者はまだ自己の階級の申し子ではなく、現代の申し子ではない、ということである…。何としてでもこのような労働者を目覚めさせなければならない。もし読むことができないのなら、他の者が読み聞かせてやらなければならない。そして、そのためには、彼らの興味関心をつかみ、彼らの琴線に触れなければならない。何によってか? 彼らの最も身近な関心事によってである。誰かが彼らのことについて考え書いていることに耳を傾けさせなければならない。これをすることができるのは誰か? 労働者通信員である。工場にいる最も遅れた仲間の労働者のまどろんでいる思想を目覚めさせることは、自分の仕事を真面目に考えているすべての労働者通信員にとっての第1の課題である。

 池の水は、新しい源泉から流入しているかぎり、よどんだり停滞したりはしない。このことは新聞にもあてはまる。印刷された言語が革命的に独占されている場合には、とりわけそうである。常に新聞官僚主義の危険性があることを忘れてはならない。編集部には、自分たちの部署、自分たちの仕事部屋、自分たちの習慣、自分たちのアプローチや上からの指令がある。しかし、実生活は常に変化しており、大衆は移り変り、新しい問題と関心が生じる。新聞の見方と読者の見方とがすれ違っている場合には、それは新聞にとっての死を意味する。労働者通信員はこのようなことが起こるのを許してはならない。労働者通信員は大衆の実生活について単に新聞に書けばいいというものではない。新聞が大衆にどのように受けとめられているか、自分の記事だけでなく、新聞のすべての紙面、すべての欄や記事がどのように受けとめられているかをフォローしなければならない。新聞そのものについて新聞に書こう!

 新しい本やパンフレットが労働者の中でどのような反応を得ているかについても関心を寄せ、本について書評を新聞に書かなければならない。新聞は本に取って代るものではない。本だけがある問題についてあらゆる側面からとらえ、それについてより深く科学的に解明することができる。書くだけで読書をしない労働者通信員は前に進めなくなるだろう。そして、前に進めない者は後退することになる。労働者通信員には自己の知的レベルを読者よりも高める義務がある。読書し、学習しよう。そして、労働者通信員として、実生活の中で関心を持つようになった諸問題に沿って読書しよう。

 ソヴィエト国家は、最も広範な大衆を統治に近づけ、統治することを学ばせるという独自の課題を有している。いかなる場合であっても、この課題を看過することはできない。しかし、過去数年間の経験から、この課題を実際に解決することは、われわれが革命当初に想像していたよりもはるかに困難であることがわかった。われわれはあまりにも後進的で無知であり、字の読めない者があまりにも多く、日常生活はあまりにも牢固としている。他方で、経済建設の実践的諸問題はあまりにも先鋭で切迫している。ここに、官僚主義の傾向が発生してくる主要な源泉がある。すなわち、勤労者の参加なしに、そして彼らの背後で、国家の官僚的指令を通じて問題を解決しようとする傾向である。

 まさにここにおいて、国家機構をチェックする強力な存在として新聞が登場してくる。新聞は、国家の仕事が下層民衆にどのように影響を与え、どのように受けとめられているか、下層民衆がこの仕事にどのように反応しているかを語る。この反応をつかみ、それを新聞に反映させることは、労働者通信員の不可欠の課題である。こうすることによって新聞は、読者が国家の仕事をチェックするのを可能にし、しだいに統治そのものに参加する準備をさせる。労働者通信員は単に新聞の協力者であるだけではない。彼らは、ソヴィエト体制の新しい重要な構成要素である。彼らは政府機関の活動を補完し、その官僚主義に対抗するのである。

 

   日常生活の諸問題

 労働者通信員の活動分野に入っている最も重要な問題の一つは――これについては私はすでに一度ならず話したり書いたりしているが――、解体と再編の過程にある勤労者大衆の日常生活である。しかし、この問題は職場や工場の問題よりもはるかに複雑である。ここでは、正しいアプローチがとりわけ重要である。さもなくば容易に問題を混乱させることになるだろう。日常生活の諸問題はその基本において、経済的・文化的建設と文化的・教育的働きかけに帰着する。この点では、自らの仕事を正確かつリアルに、うぬぼれることなく評価することが非常に重要である。

 この仕事は、異なった歴史的意義を持つ2つの要素からなっている。一方では、われわれは少しづつ家庭と経済の日常生活に集団主義の要素を導入しつつある。この領域では、われわれの成果がいかにささやかなものであれ、仕事の方向性の点で、この問題に関して資本主義諸国でなされたあらゆることと根本的に区別される。しかし、他方でわれわれは、あらゆる文明諸国で一般的なものとなっている文化的習慣――読み書き、新聞を読むこと、清潔さ、礼儀正しさ、等々――をわが国の勤労大衆が習得する方向に向けて仕事を行なっている。このように、われわれの文化的仕事の基本的進路が社会主義と共産主義を志向している一方で、われわれは同時に、わが国の文化戦線の巨大な各部分をせめて先進ブルジョア諸国で達成されている文化水準にまで前進させるという仕事を遂行しなければならない。全体としてわが国の歴史的過去に条件づけられているわれわれの仕事のこの2重性は、われわれの仕事の意味と内容に関して自己欺瞞を犯すことのないよう、きちんと理解しておかなければならない。

 たとえば、いくつかの地方の新日常生活協会は「共産主義道徳」をつくり上げることを自らの課題としている。しかし実際には、この言葉は、いいかげんさの根絶、アルコール中毒や汚職やその他の悪徳に対する闘争を意味するものとして使われている。このように問題を立てることによって、われわれ自身がある種の視覚的欺瞞の犠牲になっていることは、まったく明らかだ。あたかも、いいかげんさや汚い言葉、アルコール中毒、汚職といったものが資本主義世界の全体を特徴づけるものに見え、あたかも、われわれが、これらの悪徳や罪を自国から一掃することによって「共産主義道徳」を初めてつくり出すことを課題にしているかのように見える。しかし実際には、いいかげんさや汚い言葉、汚職等々に関するかぎり、われわれは帝政ロシアの恐るべき遺産の相続人なのであり、それは帝政ロシアの文化がヨーロッパ諸国と比べて数十年、場合によっては数百年遅れていることの所産なのである。このような前ブルジョア的野蛮を一掃することこそ、われわれの文化的課題の、したがってまた文化啓蒙活動家たる労働者通信員の仕事のかなりの部分を占めている。私がこの点を強調するのは、自分たちのしていることが何であるかを正しく理解することが最も重要だからである。

 諸君もご存じのように、マルクスはかつて、個々の人物と同じく政党をそれらが自分についてどう考えているかにもとづいて判断することはできないと言った。どうしてか? かつての政党はいずれも、とりわけ小ブルジョア的民主主義政党は、幻想を糧にしており、自分たちの綱領や活動におけるズレや矛盾から目をそらしているからである。ブルジョア民主主義政党は幻想なしに生きることはできない。まさにそれゆえ、たとえばメンシェヴィキやエスエルは自らを「社会主義」政党であると考えることができたのである。このような幻想は、彼らが実際にはブルジョアジーの利益に奉仕する仕事を遂行しているという事実をおおい隠している。しかし、われわれ共産主義者に幻想は不要である。われわれは、偉大な歴史的仕事を成し遂げる上で、いかなる幻想も自己欺瞞も偽りの粉飾も必要としない唯一の政党である。いいかげんさやアルコール中毒や汚職に対する闘争を、「共産主義道徳のための闘争」とか「プロレタリア文化のための闘争」といったきわめて厳かな洗礼名をつけても、共産主義体制の到来をいささかでも近づけるものではない。それは単に、われわれの初歩的で準備的な仕事を、マルクス主義者にまったくふさわしからぬ誤ったレッテルで美化するにすぎない。

 しかし、こう言ったからといって、大衆の文化水準を引き上げるための日常的な闘争の意義を低めるつもりはいささかもない。反対に、いっさいはこの闘争の成否にかかっているのである。かつて私は、チフスを感染させるシラミが社会主義を食いつぶしかねないと言ったことがある。汚職に対する闘争は、シラミに対する闘争と同様、それ自体として共産主義道徳を導入することではない。しかし、明らかに、身体的および精神的不潔さにもとづいて共産主義を建設することはできない。

 都市や農村で、「コムソモール員は酒を飲まない」とみなされている。このような成果は強化し発展させなければならない。アルコール中毒に対する闘争は…トルストイ主義だなどと深遠ぶって説明してみせるおしゃべり屋を見かけることが最近しばしばある。これほど愚かで陳腐なことを想像することは難しい。アルコール中毒に対する闘争は、勤労大衆にとって、身体的、精神的自己保存、そして何よりも革命的自己保存のための闘争なのである。われわれはようやく自らを向上させはじめたばかりである。わが国では万事がかつかつの状態にある。賃金の引き上げは非常にゆっくりゆっくりとしかできない。だが、何といっても、賃金は労働者の日常生活の基礎であり、文化的向上の基礎である。アルコールが労働者の日常生活に食い込むならば、それは労働者の賃金のかなりの部分を奪い取り、こうして文化的向上の足元を掘りくずすことになるだろう。わが国の経済機関が重い病気から立直りはじめたばかりであり、まだいたるところで深い後遺症が残っている現在の状況のもとで、アルコールがいかに危険なものかを明確に理解しなければならない。労働者通信員は、アルコール中毒に対する闘争を、それぞれの労働者集団の生活条件全体に、彼らの工場・文化・家庭生活における諸状況に、密接に結びつけることができなければならない。そして、大衆の文化的向上と革命の最も凶悪な敵であるアルコール中毒を軽視する労働者通信員は、真の労働者通信員ではない!

 日常生活の諸問題と関連して、「10月命名式」に対してどういう態度をとっているか、それは新しい日常生活の一部であるかどうか、という質問が来ている。もちろん、10月命名式の意義を過大評価する必要はいささかもないし、ましてやそれを官僚主義化することは許されない。しかし、変化の徴候として、それは疑いもなく一歩前進である。ちょうど今日、エリザベトグラート地区から手紙を受けとった。この地区はマフノ派が最も強かった地域の一つであり、最も野蛮な略奪の被害をこうむったところである。そこのある村(名前は忘れた)ではすでに、10戸の農家が10月命名式を開催し、しかもその10月命名式に老人も参集したとのことである。このこと自体は、繰り返すが、日常生活を変えるものではない。だが、それは何か新しいものへの志向を示す大きな変化である。10月命名式については、このように見なければならないだろう。

 わが国における宗教上の信仰はしばしば、人々の頭の中や意識や確信の中に存続しているというよりも、むしろ彼らの日常生活、彼らの習慣、彼らの置かれている環境の中に存続している。まさにそれゆえ、科学的な論拠だけで常にうまくいくとはかぎらないのである。しかし、その代わり、宗教的偏見が日常生活においてどのように現われているかを示すことによって、その宗教的偏見にきわめて大きな打撃を与えることができる。洗礼や結婚や葬式が教会でどのように行なわれているかを明瞭な批判的目で見て、それを率直に、ないし、少しこっけいに描きだす――そうする才能があればだが――ことが必要である。このような宗教的な日常生活に関する記事は、わが国のペン画家による深遠でもってまわった漫画よりも、日常生活における教会の役割に対する闘争においてはるかに大きな貢献をなすだろう。

 

   性の問題

 日常生活との関連で、性の問題について多くのことが言われている。この問題に対する関心はわが国の青年の間でとりわけ強いが、それも当然である。このテーマについて書かれたものはあらゆる会議に出されている。そして、問題は理論的にではなく、すなわち、家族の諸形態の発展および性的社会関係の発展をマルクス主義的に解明するという意味ではなく、実践的に提起されている。すなわち、現在いかに生きるべきか、今日どのようにあるべきか、と。

 しかし、これは難しい問題である。実践的に先鋭な形で出されているこの問題に対して、何らかの断定的な回答を与えることは、わが国の状況のもとでは不可能である。なぜなら、性の問題はわが国の社会および家庭生活における諸関係の結節点をなしており、この結節点は今のところ、はなはだしくこんがらがっているからである。私はここでこれを解きほどくことはできない。理論的にさえそうである。そうするにはたいへん長い時間が必要であろうし、この課題は今日の日程にはまだのぼっていない。しかし、主要なモメントについては指摘しておこうと思う。というのは、労働者通信員は、性的な社会的基礎から生じている諸関係、諸紛争、諸困難を無視して通り過ぎることはできないからである。

 言うまでもなく、われわれは性の問題をも公然と検討している。神秘主義なしに、因習的な嘘や偽善なしに、そして、もちろんのことシニシズム(冷笑主義)なしに、である。若い世代は、性の生理学および社会衛生学について時宜にかなって情報を提供されなければならない。政治的な識字能力と同様、性的な識字能力も必要である。これは、われわれが与えるべき最小限のことである。しかし、もちろんのこと、これは、わが国の過渡的条件のもとでの性生活と結びついた諸矛盾を解決することからほど遠い。

 住宅問題は、この領域において、一般に個人生活にかかわる他のすべての領域と同様、巨大な影響力を有している。文化的人間にふさわしい居住条件を作り出すことは、より大きな文化性と人間性を導入するうえでの必要な前提条件であり、性的関係においてもそうである。同じことは公共の食堂、幼児や一般に子供らの養育と教育にもあてはまる。社会主義の方向に向けた日常生活の再編の全仕事は、現在の性的諸矛盾の解決にとってより有利な諸条件を作りだすことになるだろう。

 これと平行して、個性の覚醒と発展の過程が生じつつあるし、生じるだろう。文化性は同時に内的な規律でもある。完全な社会主義と共産主義に進めば進むほど強制の機関としての国家はしだいに死滅していくとわれわれは語っているが、そう言うことでわれわれは、新しい共同生活にとって必要な規律が全体として外的なものから内的なものになり、個々の市民の社会的文化性に移行していくと言っているのである。合唱団のメンバーが調和的に歌うのは、強制されているからではなく、そうすることが楽しいからである。それと同じで、共産主義においても、社会関係の調和性は個々人および全員の個人的必要性に対応している。性的関係においては、このことは一方では、それが外的な束縛と圧迫から解放されることを意味し、他方では、より豊かな精神生活とより高度な要求をもった個人の内的規律に従うことを意味する。もちろん、これはかなり長期の展望である。しかし、それでも、これは、性的関係の領域において現在の先鋭で病的な諸矛盾からの活路を探しだす道をわれわれに指し示している。日常生活の再編のための社会的仕事と、自らの個性のための、あらゆる諸関係における人格の陶冶のための仕事――これこそ、性の問題に関して書かれた多くの文献の上に明記されるべき基本的な指針である。それとともに、これこそ、労働者通信員がこの問題にアプローチする際に持つべき観点である。

 

  日常生活の描写と新しい文学

 このように、労働者通信員を通じて、労働者の日常生活は自らをふりかえり、自分自身について語らなければならない。ところで、わが国では、新しいプロレタリア文学の課題についての論争が少なからずあったが、いくつかの文学サークルは、革命文学は「反映する」のではなく「変革する」のでなければならない、なぜなら、革命的芸術創造の分野においては日常生活の描写に出る幕などないからだ、ということをわれわれに納得させようとした。

 このようなアプローチは「左翼小児病」の最も顕著な例である。ここにはマルクス主義のかけらもない。反映せずして、どうやって変革するというのか? 日常生活を詳細にわたって具体的に知ることなくして、どうやって日常生活に働きかけることができるというのか? ある人々(未来派の共産党員)は、革命文学は「基準」を、すなわち、どうあるべきかについての一種のモデルと規範を与えなければならないとまで言うにいたった。しかし、これは明らかに、生気のない、観念論的で、教授的で、スコラ的な観点である。こうした議論においては、世界は2つの部分に人為的に分けられている。すなわち、存在(あるがままの姿)と当為(あるべき姿)に。保守派はあるがままの姿を描き出し、われわれは――おお、何と革命的なことだろう!――あるべき姿を描き出す、というわけだ。このようなもったいぶった議論を読むと、こう独り言を言いたくなるだろう。これらの人々にとってマルクスもレーニンもまるで存在しない、と。紳士淑女諸君、もったいぶるなかれ。われわれには、労働者通信員の簡単な記事に始まって、芸術的な一般化に至るまで、勤労者の実生活と日常を反映することがぜひとも必要だ。そして、疑いもなく、労働者通信員の網の目の発展、労働者通信員の視野の拡大、彼らの関心と理解力の深化、彼らの文学的手法の向上――これらはすべてが一緒になって、過渡期におけるより包括的な新しい文学にとっての基礎を築くだろう。

 問題の基本的な核心部分を取り出すために、ここで再びプロレタリア文学をめぐる論争に立ち返ることをお許し願いたい。ある同志たちは、私をプロレタリア文学に「反対」しているとして非難している。善意にとれば――というよりも、悪意にとれば――、これは、とくに私がある程度まで労働者通信員にも反対しているものと理解することができる。なぜなら、労働者通信員は、下からの直接かつ唯一のプロレタリアートの文学的声だからである。労働者通信員を通じて、プロレタリアートは自己の周囲を見回し、自分自身を見つめ、自分自身について語る。もし労働者通信員がこうした役割を果たさないとすれば、それは労働者通信員ではなく、労働者通信員の肩書きを剥奪する必要があるだろう…。

 では、同志諸君、私がプロレタリア文学に「反対」したとは、いったいどういう意味だろうか? 私はプロレタリア文学に反対したのではなく、個々の文学サークルが自分のドアに次のような表示を掲げていることに反対したのだ。「この小さな施設の中でプロレタリア文学を製造中。立ち入るべからず!」。否! プロレタリア文学の創造はこんなお手軽なものではない。課題ははるかに微妙で複雑である。プロレトクルトは、それが書くことを教え学んでいるかぎり、戯曲や音楽や芸術を教え学んでいるかぎり、すばらしい仕事を果たしている。しかし、文学サークルが、主観的な気分においてのみプロレタリアートと結びついた少数の若い作家たちから大急ぎでプロレタリア文学を作り出そうとして、「プロレタリア文学、それはわれわれである。残りのいっさいは悪よりいずる」と言うとき、われわれは反対しなければならない。諸君は急ぎすぎている! 自らの願望を現実と取り違えている。われわれがプロレタリア文学に「反対」しているからではなく――それはナンセンスだ――、このような単純でお手軽なやり方でプロレタリア文学を作り出すことは――「プロレタリア文学」という言葉をサークル的意味で理解するのではなく、階級的意味で理解するならば――不可能だからだ。諸君の前にある課題は何よりも遅れた労働者階級を向上させることである。不幸なことに、労働者大衆の間では文学にすらまだ届いていないのだ。

 さて同志諸君、われわれはよく「ブルジョア文学」について語っている。どうしてわれわれはそれをブルジョア的と呼ぶのか? その呼称はいったいどこから来たのか? それはどのように形成されたのか? ブルジョア階級は豊かであり、それゆえ教養を持っている。彼らには自由な時間がある。なぜならプロレタリアートを搾取しているからだ。彼らはその自由な時間を文学や芸術等々を含むあらゆる種類の楽しみに費やす。ブルジョア作家はどのように育成されているか? 彼らはたいてい、大・中・小ブルジョアジーの子弟であり、ブルジョア学校で学び、ブルジョア家庭で育ち、ブルジョア・サロンに出入りし、そこでブルジョア議員や技師や商人と出会い、同じブルジョアジーの耳を楽しませているブルジョア音楽家と出会う。このように、彼らは常に「自分自身の」社会的雰囲気を有し、その中で生き、その中で呼吸している。彼らはちょっと言葉を交わせばお互いを理解することができる。作家や芸術家は蓄積された日常的な印象を有していなければならない。彼らはそれをどこで蓄積するか? ブルジョア世界でだ。なぜか? なぜなら彼らは水を得た魚のようにこの世界の中を自由に泳いでいるからである。これは彼らの世界、豊かで「文化的」な世界なのである。彼らがその中で自分の中に吸収したもの、このブルジョア世界の中で吸い込み、嗅いだもの――それらを、彼らは詩や中長編小説に移す。ごく簡単に言えば、これがブルジョア文学の作り出される過程である。

 ただし、それは一足飛びにできたのではない。それは何百年もかけて形成されてきた。ブルジョアジーは何百年も支配している。それは権力をとる以前にも、当時において豊かで教養ある階級であった。そしてすべての芸術仲間の中には彼らの新聞記者もいる。彼らはいわばブルジョア通信員と呼べよう。これらのブルジョア通信員はブルジョア家族・サロン・商店等々で見聞きしたものを糧にしてきたのだ。

 それでは、ブルジョア文学の発展の主要な条件は何であろうか? 主要な条件は、ブルジョア文学者や一般に芸術従事者とブルジョアジー自身が同じ日常的環境の中で暮らしていること、だいたい同一の文化水準によって特徴づけられていることである。文学、科学、芸術がとりわけ豊かなのは、ブルジョアジーが豊かで強力な国であり、ブルジョアジーが長期にわたって発展を遂げ支配し、イデオロギー的に国民の大部分を自己に従属させている国であり、偉大な科学的・文化的伝統を有している国である。わが国の場合、古典文学、精神的に貴族的な文学と遅ればせのブルジョア文学がつくり出される過程の中で、わが国の作家たちは、彼らを養い援助し鼓舞することのできる階級とともにのみ生涯を送った。

 さて同志諸君、今日、わが国のプロレタリアートがこのような条件をそれ自身の芸術家や作家や詩人たちに作ってやることができるかどうか、イエスかノーか自問してみるとしたら、私はこう答えるだろう。残念ながら、まだ不可能である、と。どうしてか? なぜならプロレタリアートはまだプロレタリアートだからである。生まれたばかりのプロレタリア作家ないし芸術家を勉学と育成のために学校へ送るためには、われわれは現在の状況のもとでは彼らを生産から引き離し、工場から引き離し、そしてある程度までは労働者階級の日常生活一般からさえ引き離さなければならない。プロレタリアートがプロレタリアートであるかぎり、その内部から出てきたインテリゲンツィアでさえ多かれ少なかれ不可避的に労働者階級から分離することになるだろう。

 マルクスとレーニンは労働者ではなかった。だが、それと同時に、その普遍的知性でもって労働者階級の発展経路を理解し、それを科学的体系の中で表現した。しかし、詩人や小説家が一般の労働者大衆の気分を感じとり、それを文学や詩の中で表現するためには、労働者大衆と――その生活、日常、日々の体験の中で――絶えず不可分に結びついていなければならない。だが現在、われわれが新しい真の大衆文化をつくりだすまでは、そうはならないし、実際のところ不可能である。そして、そのための条件は、まず第1に読み書きできるようになることであり、第2に、半端な読み書きではなく、真に読み書きできるようになることであり、第3に普遍的な教養を身につけることである。だがそのためには、全般的な物質的保障が必要である。すなわち、人類が広範な余暇を――休息のための余暇だけではなく、自己学習と自己修養のための余暇を――有しているような生活条件が必要である。言いかえれば、これは、労働者階級が、その上層部だけではなく、全体としてすべての人類文化を習得しているような水準にまで、物質的・精神的に社会が発展していることを前提している。

 そこに至る道は広いだろうか狭いだろうか、長いだろうか短いだろうか? この道の長短は、完全な発達した社会主義に至る道の全体が長いか短いかによって決まるだろう。なぜなら、プロレタリアート全体を、そしてそれが引きつれている農民大衆を、もはや読み手と書き手との間に、芸術家と観客の間に巨大な文化的開きがないような文化的水準にまで真に引き上げることは、揺るぎない発達した社会主義にしかできないことだからである。そして、この時の文化はいかなる文化であろうか? プロレタリア文化か? 否、これは社会主義文化であろう。なぜなら、プロレタリアートはブルジョアジーと違って、永遠に支配階級であることはできないし、そうしようとも思わないからである。反対に、プロレタリアートが権力をとったのは、できるだけ早急にプロレタリアートであることをやめるためである。社会主義のもとではプロレタリアートは存在しない。存在するのは、強力で文化的な勤労者協同社会であり、したがってまた、存在する芸術は、協同社会的ないし社会主義的な芸術である。

 もちろん、現在、プロレタリアートの隊列の中から出てきている、ないし、プロレタリアートに向かっている若手の作家グループの中には、才能のある、ないしは少なくとも有望な詩人や小説家等々がいる。しかし、彼らの作品はこれまでのところ、プロレタリアートを満足させることなど問題になりえないほどわずかなものである。あらゆる手段をつくして芸術作品のこのプロレタリア的若芽を援助しなければならない。だが、同時に、取るに足りない若手文学グループが自らを「プロレタリア文学」の担い手と宣言するといった、将来の展望を破壊するような行為は許すことはできない。このような自己評価は、プロレタリアートの文化史的発展の歩み全体に対する誤った理解にもとづいている。プロレタリアートはこれからもまだまだブルジョア芸術を通過する必要があり、この芸術がつくり出した最良のものを摂取し、自らの芸術的水準を引き上げ、こうすることで、真の大衆的社会主義芸術のための条件を保証しなければならない。この過程において、それぞれのプロレタリア文学グループはそれなりのささやかな場所を占めるだろう。しかしいずれのグループも独占権を持つことはできない。

 もちろん、プロレタリアは、ブルジョア芸術に対して、貴族の家屋敷に対してと同様、プロレタリア式にふるまうだろう。何といってもプロレタリアートはその階級的観点を芸術からとってくるのではなく、反対に芸術に階級的観点を持ち込もうとするからである。そして、この点でも、労働者通信員の助けが必要である。労働者通信員は、一方における大衆と、他方における作家や一般に芸術家との間をつなぐ媒介者とならなければならない。男性労働者は何を読んでいるか? 女性労働者は何を読んでいるか? どのような芸術作品が男女労働者に好まれているか? どのように読まれているか? そこから得られたものを自分たちに、自分たちの生活に適用しているかどうか? これらすべてを労働者通信員はよく見、よく聞き、そして語らなければならない。

 このホールに貼られている壁新聞は、労働者通信員が積極的な役割を果たして作ったものであり、もちろんのこと、大衆の文化的水準を引き上げるためのわれわれの闘争における非常に価値ある成果である。これが下から作られてきたという点に、その巨大な意義がある。われわれは、壁新聞を一番うまく作成し一番うまく着色した工場作家や工場芸術家を表彰し、讃え、報奨を――主として、レーニンの著作集でもって――与えなければならない。

 しかし同時に、同志諸君、手製のこれらの壁新聞は、わが国の貧しさ、わが国の文化的後進性を、そして発展したブルジョア諸国に文化面で追いつくために――もちろん、一方ではわれわれの社会主義的土台を維持・強化しつつ――どれだけ多くのことを学ばなければならないかを、思い起させてくれる。壁新聞を含むわが国のメディアは、ブルジョア・メディアによって展開されている「思想」よりもはるかに高度な思想を表現している。しかし、たとえばイギリスの新聞を、素材の種類の豊富さ、熟練度、読者を引き付ける叙述の仕方、イラストレーションの美しさ、製作技術という観点から取り上げるならば、こう言わなければならないだろう。彼らは何とわれわれのはるか先を行っていることだろう、と! 彼らは大新聞だけでなく、各種の職業や企業や地域社会などの特殊な利害や必要に応じ、生活のあらゆる側面を反映した無数の小さな専門紙を有している。それに対して、われわれは手製で壁新聞を作らなければならず、しかもそれを月に1度程度しか、時にはそれよりも稀な頻度でしか発行できないのである。

 あるいは、わが国のメディアをアメリカのメディアと比べてみよ! ソヴィエト連邦全体で、われわれは現在500種類に満たない新聞を有し、発行部数は全部合わせて250万部である。アメリカでは、およそ2万種類の新聞があり、その発行部数は2億5000万部以上である。すなわち、およそわが国の100倍である。しかも、アメリカ合衆国の人口はわが国の人口よりも2000万人も少ないのだ! われわれは常にこの数字を念頭に置いておこう。わが国の後進性を一瞬たりとも忘れてはならない。とりわけ非文化性の恐るべき力が発揮されるのは、それがわれわれの意識を眠らせるという点である。だがわれわれに必要なのは、常に目覚めている意識である。そうなってはじめて、われわれは最も強力な敵を含むすべての敵を克服し、われわれの非文化性を克服するだろう!

 

   批判と暴露について

 最後に、わが国のあらゆる種類の乱脈に対する批判と暴露についてもう一度述べたい。これは、容易でもあり困難でもある課題である。それが容易であるというのは、その種の乱脈が実に多いからである。諸君はそれをわざわざ探す必要はない。周りを見渡せば、それで十分だ。困難であるというのは、乱脈の原因が実に複雑だからである。そして、その原因を即座に発見することは常にできるわけではない。

 わが国では万事が「軌道に乗りつつある(ナラージヴァニエ)」過程にある。この言葉――「軌道に乗りつつある」――は周知のように、わが国ではよく使われる。ウラジーミル・イリイチ(レーニン)はこの言葉を非常に嫌っていて、常に皮肉っぽく使っていた。軌道に乗りつつある…。つまり、まだ軌道に乗っておらず、いつ軌道に乗るのかわからない、と。「軌道に乗りつつある」という言葉の下には、しばしば、無能さ、ぞんざいさ、不注意が隠されている。しかし同時に、それは、困難な客観的条件とあらゆる種類の不足と欠陥をも反映している。乱脈の客観的原因と主観的原因とを、災難と過失とを分離することは非常に困難である。同じく、工場、学校、軍事施設における状況を一般的に評価することも容易なことではない。事態は改善に向かっているか? 大きな成果はあったか? その指導者を称賛すべきか非難すべきか? 同一の工場を取り上げ、それを検査し、直接に矛盾する2つの評価を与えることも可能である。第1の場合には、あらゆる乱脈や混乱の諸事実やその現われ、労働力や原材料の非合理的な利用、等々を列挙する。そして、このような事実はまだまだ多く残っている! しかし、このような事実を違ったふうに取り扱うことも可能である。この2、3年間におけるあらゆる改善点やあらゆる種類の成果を集める。そして、このような改善点も少なくない。これらの諸事実を集め、すべての欠陥に目をふさぐのなら、実に好都合な構図が描ける。

 まさにそれゆえ、わが国の複雑で困難な過渡的状況においては、検査員、したがってまた労働者通信員は、きわめて容易に自己の主体的な弱点、彼ら自身の重大な恣意、さらには悪意の犠牲にさえなりうるのである。正しい路線を堅持するのに必要なものは、大きな思慮深さであり、非常に大きな誠実さである。メディアの中で検査したり責任を追及したりする人々が、もっぱら表面的な印象や個人的な偏見にもとづいて検査結果を出す場合には、このような検査や点検は明らかに事業を前に推し進めるものではなく、反対に士気を阻喪させ、事業を破壊するものになるであろう。

 労働者通信員はこのような危険性を疫病のごとく避けなければならない。もちろん、彼らは判断や評価においてしばしば間違いを犯すだろう。どんな事業にも誤りの可能性はあるし、新聞事業においては他の何にも増してそうである。しかし、えこひいき、恣意性、無責任さは、労働者通信員にあっては許すことはできないし、許してはならない。恣意と闘うべき労働者通信員自身が、その共感・評価・結論において恣意の源泉になるようなことがあっては絶対にならない。自らの仕事を遂行する上での責任感は、彼らの全活動において指導的役割を果たさなければならない。労働者通信員は社会における良心の器官であり、監視し、暴露し、要求し、自己主張する器官である。そうでないわけがあろうか!

 労働者通信員は乱脈について、それが根絶されるのを期待して書く。しかし、常にそうした乱脈がすぐに根絶されるわけではない。まさにこの点に、労働者通信員にとっての真の活動領域が開かれている。うまくいかなかった場合に、あきらめてしまうのは実に簡単である。しかし、闘士たる労働者通信員は違ったように行動する。彼らは知っている。乱脈を発見することは、それを根絶することよりもはるかに簡単なことを。また、新聞の効果はすぐには発揮されず、繰り返しと圧力によって日々少しづつ効果を発揮することも知っている。労働者通信員は、新しい状況と新しい細部をともなった何らかの新しい好機を新しいやり方で利用して、これらの乱脈を暴露する。それだけではなく、彼ら自身が問題についての学習を積み、あれこれの側面から乱脈問題にアプローチし、この乱脈の根はどこにあるのかをより明確に理解し、乱脈の主要な原因により正確に打撃を与えなければならない。労働者通信員には自制力が必要であり、闘士としての気質が必要である。

 大規模な政治の領域においてさえ、われわれはすぐにいっさいを獲得したわけではなかった。何十年にもわたる非合法闘争の時期を過ごしてきた。1905年、その敗北ののち再び非合法活動、その後1917年の2月革命、内戦…。わが党は革命闘争において最大限の自制力を発揮し、そのおかげで勝利したのである。労働者通信員はこの共産党の精神をすみずみまで吸収しなければならない。闘争、自制、革命的義務の精神を。労働者通信員は共産主義者でなければならない。文字だけで生きるのではなく、絶えざる批判と自己批判であるレーニンの教えの精神にもとづいて生きなければならない。言葉面を信じるな、噂に左右されるな、数字を点検し、事実を点検し、勉強し、批判し、努力せよ。恣意や無力感と闘え。自己主張し、繰り返し主張し、その知的理解を広げ、自ら前進し、他者を前に駆り立てよ。その時はじめて、正真正銘の労働者通信員となることができるだろう!(嵐のような拍手)

1924年7月23日

『プラウダ』第183号、1924年8月14日付

ロシア語版『トロツキー著作集』第21巻『過渡期の文化』所収

『トロツキー研究』第19号より


  

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