ロシア革命の擁護

(コペンハーゲン演説)
トロツキー/訳 渡辺 憲正

【解説】これは、1932年11月にデンマークのコペンハーゲンで行なわれた有名な演説である。トロツキーはこの長い長い演説をすべてドイツ語で行なっている。この演説の中で、トロツキーはほぼ全面的な形で、永続革命論の基本概念から、ロシア革命の特殊性、ボリシェヴィキの性格と意義、そしてロシア革命に対する無数の批判に対する反論にいたるまで、系統的にロシア革命を論じている。その擁護論は、基本的に今日でも有効である。ロシア革命、とりわけ内戦時におけるボリシェヴィキ政権のあれこれの残酷な側面や多くの犠牲者を理由に、ロシア革命そのものを否定しようとする言説は、ソ連崩壊をきっかけに、かつてなく流布したが、トロツキーのこの演説はすでにそのような否定論に対するきわめて説得力のある反論になっている。

 ただし、20世紀後半に発展したエコロジスムを始めとする新しい思想をすでに知っている現在の地平から見れば、この演説の最後で展開されているトロツキーの未来社会像は、あまりにも近代合理主義的で啓蒙主義的であると言えるだろう。その点はきちんと割り引いて読む必要がある。

 ちなみに、この演説会には、後に戦場カメラマンとして世界的に有名になるロバート・キャパも出席していて、右上の写真を含め、身振り手振りを混ぜながら演説するトロツキーの姿をカメラに収め、それを発表した。その写真は初めて大手の雑誌に発表されたロバート・キャパの出世作であり、彼の名声を一躍高めるきっかけとなった。

Leo Trotzki, Verteidigung der Russischen Revolution, Schriften 1, Sowjetgesellshaft und stalinische Diktatur, Band.2, 1988.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 聴衆の諸君。

 諸君に、私は冒頭から、率直にお断りを申し上げなければならない。遺憾ながら、私はコペンハーゲンの聴衆諸君にデンマーク語でお話しすることができないのである。諸君がこのために損失を蒙ることになるかどうか、いまは問わない。講演する私に関して申せば、デンマーク語を知らないがために、とにかくスカンジナビアの生活やスカンジナビア文学をじかに原語で知ることができない。これは大きな損失である。

 いたし方なく、ここではドイツ語を頼りにするほかないのだが、ドイツ語は力強く豊かな言語であるとはいえ、私のドイツ語能力にはかなりの限界がある。さらに、複雑な諸問題を自在に論ずることは、自国の言語によるしか不可能である。だから、私はあらかじめ聴衆諸君の寛恕を請うておかねばならない。

 はじめて私がコペンハーゲンを訪れたのは、第2インターナショナルの大会が開催されたときのことであった。私は諸君の街のすばらしい思い出を胸に刻んで帰った。だが、それはすでに4分の1世紀ほども前のことだ。以来、ベルト海峡やフィヨルドの水は、幾度となく変遷を重ねた。だが変遷したのは、水だけではない。戦争が古いヨーロッパ大陸の背骨を砕いたのだ。ヨーロッパの河や海が人々の血を洗い流したことも、少なくない。人類は、とりわけヨーロッパ人は、つらい試練を経て、ますます陰欝に、酷薄になってしまった。いかなるものにせよ、戦いは、いよいよ熾烈になった。世界は巨大な転換期に入った。その極端な現われが、戦争革命なのである。

 本講演のテーマ、ロシア革命にはいるに先立ち、私としては、この会の主催者であるデンマーク社会民主党学生組織のコペンハーゲン支部に、感謝の意を表明しておかなければならない。私は政治的反対派に属する一人として感謝する。なるほど、この講演が追求するのは、あくまで学問的・歴史的な課題であり、政治的なものではない。このことは、まず最初に力説しておく。しかし、ソヴィエト連邦が生まれるもとになった革命を、一定の政治的立場をとることなしに語るのは不可能だ。講演者という在り方において、私はこの革命の諸事件に関わったときと同じ旗の下に立つものである。

 先の大戦まで、ボリシェヴィキ党は社会民主主義のインターナショナルに所属していた。1914年8月4日、ドイツ社会民主党が戦時公債に対し賛成投票を行なったことから、この関係は最後的に終息し、ボリシェヴィズムの社会民主主義に対する絶え間ない、非和解的な闘いが始まった。ここからすると、この会の主催者は、私を講演者として招いて、誤ちを犯したことになるのだろうか。これに対する判断は、私の講演が終了してはじめて可能になるであろう。

 ロシア革命について報告せよとの招待をどうして私が受諾したのか。この申しひらきのために、次のことを申し上げよう。35年におよぶ政治生活において、ロシア革命というテーマは、実践的にも理論的にも私の関心と行為の主軸であった。トルコ滞在のこの4年間、私は主としてロシア革命の諸問題に関する歴史的な論述に費やした。というわけで、これまで気づかれずにいた革命の多くの特徴をよりよく把握するのに、あるいは友人や同志の諸君だけでなく、敵対する人々にも、少なくとも部分的には力となりうることをいささか期待するしだいなのである。いずれにせよ、本講演の課題は、理解を助けることである。革命のプロパガンダを行なおうとも、革命に駆り立てようとも、考えてはいない。私の意図は、革命を説明することにある。スカンジナビアのオリンポスに反乱の女神がいたのかどうか、私は知らない。まず、いなかったであろう! ともあれ今日は、女神の引立てを請わないことにしよう。この講演は老いた知恵の女神スノトラの下に置く。生きた出来事としての革命の生み出す熱烈な劇的緊張は差しおいて、なんとか、革命を解剖学者のように冷徹に扱うよう心がけることにする。このためにかえって講演が無味乾燥になってしまうとしても、辛抱していただきたいと思う。

 

  革命の客観的要因と主体的要因

 いくつかの基本的な社会学の原則から始めよう。これらの原則は、諸君のすべてにきっとよく知られていることだろうが、ただ革命のような複雑な現象に迫るのには、やはり改めて記憶をはっきりさせておかねばならない。

 人間社会は、生存と種の確実な維持のための闘争から歴史的に成立した協同体である。社会の性格は、その経済の性格によって規定される。経済の性格は労働手段によって規定される。

 生産諸力が画期的に発展を遂げる各時代には、それぞれ一定の社会体制が対応する。これまで、いかなる社会体制も、支配階級に巨大な利益を保障してきた。

 いま述べたことからもすでに明らかなのは、社会体制が永劫のものではないということである。社会体制は歴史的に生成し、ついで、進歩にとっての足枷に転化する。まこと、「生成せるいっさいは、滅びゆくに値する」のである。

 だが、これまで支配階級が自発的かつ平和的に歴史から退いたことはない。生か死かの争いにおいて、理性の論理が力の論理にとってかわったためしはない。これは悲しむべきかもしれないが、とにかく事実はこのとおりなのである。この世界をつくったのはわれわれではない。世界を現にあるがままに受け取るほかはない。

 というわけで、革命とは社会体制の交代を意味する。それは権力を、命運の尽きた階級の手から、新興の階級の手に移す。蜂起は、2つの階級がくりひろげる権力闘争における最も決定的な瞬間である。この蜂起が革命の真の勝利と新しい体制の樹立にまで行きつくことができるか否か。その成否は、蜂起が進歩的階級によって支えられ、かつ、この階級が圧倒的多数の国民を周囲に結集させることができるかどうかにかかっている。

 自然史の諸過程とは異なり、革命は人間によって、人間を通して実現される。とはいえ革命においても、人間は社会的諸条件の影響の下で活動する。この社会的諸条件は、人間の自由選択になるものではなく、過去から引き継ぐものであるから、それによって人間はいやが応でも行くべき道を指定される。まさにそれゆえに、唯一それゆえにのみ、革命は法則性をもつのである。

 だが、人間の意識は客観的諸条件を受動的に反映するのではない。人間の意識は、客観的諸条件に対して能動的に反応するものなのだ。ある時機には、この反応が、緊張した、熱情的、大衆的な性格をおびることもある。法と権力の障壁がくつがえされるのだ。大衆が事件に能動的に介入すること、これが実際また、何にもまして革命に不可欠の要素をなすのである。

 だが、いかに激烈な行動であっても、デモや反乱の段階にとどまり、革命の高みに達しないこともありうる。大衆の蜂起は、一階級の支配を打倒し、他の階級の支配を打ち立てるところまで行かなければならない。こうしてはじめて、革命は完了する。大衆の蜂起は、他との関連もなく、思いのままに起こすことができるというような事業ではない。蜂起は、革命の発展において客観的に制約された一構成部分である。それは、革命が社会発展において客観的に制約された一過程をなすのと同じだ。しかし、もし蜂起の条件が存在するときには、受動的に、口を開けて到来を待っていてはならない。人事にも、シェイクスピアがいうように、潮の満ち干があるものなのだ。

 時代遅れとなった体制を一掃するためには、進歩的階級はその時機がやってきたことをとらえ、権力獲得を課題として提起しなければならない。ここに、意識的な革命行動、予見・予測と意志や勇気とを結ぶ革命的実践の領域が開かれる。すなわち、ここに、党の活動領域が開かれるのである。

 革命党は進歩的階級の精鋭部分を一個に結合する。現局面における位置を見定め、諸事件の進行と律動を評価し、時機を失せず大衆の信頼を獲得する。こうした能力をもつ党を欠いては、プロレタリア革命は勝利することができない。以上が、革命および蜂起における客観的要因と主体的要因との相互関係である。

 

  中間考察

 論争にさいしては、周知のごとく、反駁する側が――とりわけ神学において――学問上の真理を背理に導いて疑いを投げかけるというのはよくあることである。この方法は論理学でも「帰謬法」と言われている。われわれはこれとは反対の行き方、つまり、ある一つの背理から始め、いっそう確実に真理に接近する行き方をとってみよう。革命を問題にするとなれば、とにかく、背理の事例に不足して困ることはない。最新の、とくに極端な例を一つ取り上げよう。

 イタリア人著述家マラパルテなる、ファシスト理論家というべき人物は――ファシストにも理論家はいる――先頃クーデターの技術に関する一書を物して出版した。言うまでもなく、著者は彼の「研究書」の少なからぬページをさいて10月革命を論じている。

 マラパルテの言葉によると、レーニンの「戦略」は1917年ロシアの社会的・政治的諸関係とあくまで結合しているが、これと異なり、「トロツキーの戦術は、反対に、この国の一般的諸条件に拘束されていない」。これがこの書物の主題である! マラパルテは、レーニンとトロツキーに各ページで数多くの対話をさせるのだが、2人の対話者が披瀝してみせる深遠さたるや、まさにマラパルテならではの代物である。革命の社会的・政治的前提に関するレーニンの所論に対して、マラパルテは仮想のトロツキーに託して、以下のように言わせる。文字どおり引くとこうである。

「あなたの戦略はあまりにも多くの有利な状況を必要とする。蜂起は何ものをも要さない。蜂起はそれ自身で充足するのだ」。

 聞いての通り、「蜂起は何ものをも要さない」。諸君、これこそ、まさにあの背理、われわれに真理を感得させてくれるはずの背理である。著者はどこまでも、10月革命で勝利したのはレーニンの戦略ではなく、トロツキーの戦術であったと繰り返す。この戦術が、彼の言葉によれば、いまでもヨーロッパの諸国家の平穏を脅かしているのである。原文のままに引用すると、「現代ヨーロッパにおいて、各国政府が対抗してあたるべき共産主義の脅威は、レーニンの戦略にはなく、トロツキーの戦術にこそある」。さらに具体的に著者はいう。

「ポアンカレをケレンスキーの位置にすえてみたとしても、ボリシェヴィキによる1917年10月のクーデターは同じように成功するだろう」。

 このような書物が各国語に翻訳されまじめに受け取られようとは、まことに信じがたい。

 「トロツキーの戦術」が、同じ課題をいかなる状況下でも解決しうるのだとすれば、いったい何のために歴史的諸条件に左右されるレーニンの戦略が必要なのか、どう究明を試みてもむなしいことであろう。また、革命がわずかな技術的な処方だけで成就するなら、なぜ成功した革命があれほどに希有であるのか。

 ファシスト著述家マラパルテの披露するレーニンとトロツキーの対話は、趣旨からも形式からも、終始一貫して低劣な作り話である。このような作り話が、全世界に少なからず出回っている。たとえば、いまマドリードで、著者トロツキーの名で『レーニンの生涯』なる本が印刷中だ。この本に対して、私は、マラパルテのいう戦術的処方に対すると同様、まったく責任を負っていないのだが、マドリードの週刊誌『エスタンパ』は、トロツキー著と詐称して、レーニンに関するこの本を、刊行前に全文掲載した。レーニンを、私は同時代の他の誰とも比較にならぬほど高く評価していたし、いまも評価している。この人物に対して、同書では恐るべき冒涜がなされている。

 だが、捏造をもっぱらにする者のことは、その運命にまかせよう。老ヴィルヘルム・リープクネヒト――かの忘れがたい戦士にして英雄カール・リープクネヒトの父親――は、よくこういったものだ。「革命的政治家たる者、泰然として動じないことが肝腎だ」。ストックマン博士は、もっと意味深長に、社会の大勢に逆らうつもりなら、ズボンを新調するのはやめるべきだと勧めた。われわれは、2人の貴重な忠告を心にとどめて、いよいよ本題に入ることとしよう。

 

  10月革命に関する問題提起

 いかなる問題を、10月革命は、心ある者に提起しているのだろうか。

 1、なぜ、どのようにしてこの革命は実現したのか。具体的にいえば、なぜプロレタリア革命はヨーロッパでもとりわけ遅れた国で勝利したのか。

 2、10月革命の成し遂げた成果は何か。

 そして最後に、

 3、10月革命は試練に耐えたのか。

 第1の問題、原因に関する問題には、現時点ですでに多少とも十全な形で回答することができる。私は『ロシア革命史』において、これを果たそうと試みた。ただし、ここで私がなしうるのは、とりわけ重要ないくつかの結論を定式化して示すことだけである。

 プロレタリアートがかつての帝政ロシアのように遅れた国ではじめて権力を獲得したという事実。この事実は、一見しただけでは不可解のように見えるのだが、実際にはまったく合法則的である。それは予見することが可能であったし、現に予見された。それどころか、革命的マルクス主義者たちは、この事実の予見にもとづいて、決定的事件の起こるはるか以前に戦略を構築していたのである。

 第1の、最も一般的な説明はこうである。ロシアは遅れた国であるが、それでもやはり世界経済の一部分をなし、資本主義世界システムの一構成部分をなす。この意味で、レーニンはロシア革命の謎を「鎖はその最も弱い環で破られる」という簡潔な定式をもって余すところなく解明した。

 端的に解説を試みよう。先の大戦は、世界帝国主義の諸対立の結果として起こったから、異なった発展段階にある諸国を渦のなかに巻き込む一方、すべての参戦国に対し同一の要求を課した。ここで明らかなのは、戦争の負担が後進諸国にとって特に耐えがたいものにならざるをえなかったということだ。ロシアが最初に撤退を余儀なくされた。だが、戦争から身を引き離すには、ロシア国民は、支配階級を打倒する必要に迫られた。こうして戦争の鎖は、その最も弱い環で破られたのである。

 それにしても、戦争は地震と異なり、外からやってくる破局ではなく、別の手段による政治の継続である。戦争においては、「平和」時の帝国主義システムの主な諸傾向がさらに極端に示されただけである。世界の生産諸力が高度になって、世界における競争が緊張の度を加え、敵対関係は先鋭化し、軍拡競争が激しくなれば、それだけ弱小の参戦国では、困難は著しいものとなる。まさにそれゆえに、後進諸国は一連の崩壊過程において第一の位置を占める。世界資本主義の鎖は、つねにその最も弱い環で破られる傾向をもつのである。

 万一、何らかの特別な条件あるいは特別に不利な条件のために――たとえば外国の軍事介入が勝利をおさめるとか、ソヴィエト政府自身が取り返しのつかない過失を犯すとかのために――広大なソヴィエト領土にロシア資本主義が復活したとしても、復活と同時に資本主義の歴史的な欠陥が再現することは必至であろう。そして、復活した資本主義そのものが、やがてはふたたび、1917年に爆発をもたらしたと同じ矛盾によりくつがえされるであろう。いかに戦術上の処方を弄しても、ロシアがそれ自身の内に革命を宿していなかったとしたら、10月革命を起こすことはできなかった。革命党は、それだけでは、結局のところ、止むなく帝王切開を施す産科医の役割を果たしうるにすぎない。

 

  歴史的後進性の概念

 あるいは、こういう反論があるかもしれない。「旧ロシアでは、後進的な資本主義が窮乏化した農民層をかかえつつ、上層に寄生的な貴族と腐敗した君主をいただいていた。あなたの一般論は、このロシアがなぜ没落するほかなかったのかについては十分に説明しているかもしれない。しかし、鎖と最も弱い環の比喩では、いまだ本来の謎を解く鍵は与えられていない。問題は、いかにして後進的な国で社会主義革命が勝利しえたのか、にある。歴史には、国家と文化が衰亡していく際、同時に旧来の諸階級は没落しながらも、それを継ぐ進歩的階級が出現しなかったという例は、少なからずある。旧ロシアが没落した場合、一見したところでは、この国は、社会主義国家にというより、むしろ資本主義の植民地になるのが必定ではなかろうか」

 この異論はたいへんおもしろい。それはわれわれを、じかに全問題の核心に導いてくれる。だが、それにしても、この異論には誤りがある。こう言ってよいなら、内的な均斉がない。というのは、一方でロシアの後進性に関して誇張された観念によりながら、他方では、歴史的後進性一般の現象に関して理論的に誤った観念を基礎としているからである。

 解剖学上および生理学上の構造に比して、心理構造は、個体心理にせよ集団心理にせよ、特別の感受能力と柔軟性、弾力性に富む。これこそ、人間が動物学上で最も近い同類の猿に対してもつ優れた長所である。感受性豊かな柔軟なる精神は、歴史上の進歩の必要条件をなし、本来の、生物学上の有機体と区別された、いわゆる社会的「有機体」に変動きわまりない内部構造を与えるのである。民族と国家の発展、特に資本主義国家の発展においては、同質性も一様性も存在しない。さまざまに異なる文化段階が、対極的な文化さえもが、同一の国の生活において互いに接近し、混淆していることも稀ではない。

 歴史的後進性というのは、一つの相対的な概念であることを忘れないようにしよう。後進国と先進国が存在するなら、双方の国のあいだに交互作用もある。すなわち、先進国の側から後発諸国に対する圧力があり、後進国は先進国に追いつくよう、先進国の技術や科学の導入、等々を迫られる。こうして、発展の複合的な型が生まれる。後進性の諸特徴が世界の最新技術や最新の思想と組み合わされる。最後に、歴史的に遅れてやってきた諸国は、後進性から脱却するために、しばしば他の諸国に先んじて前進することを余儀なくされる。

 この意味では、10月革命はロシアの人民にとって、自国の経済的・文化的未開性を克服するべき英雄的手段であった、と言いうるだろう。

 

  革命前ロシアの社会構造

 以上の歴史哲学的な、やや抽象的にすぎる一般論を離れて、同じ問題を具体的な形で、つまり生きた経済的諸事実を示しながら、提起することにしよう。20世紀初頭におけるロシアの後進性がきわめて明白に現われるのは、次の事実、すなわち、ロシアでは工業の占める位置が農業に比して小さく、都市が農村に比して、プロレタリアートが農民に比して小さいという事実である。全体的に言うと、これは国の労働生産性が低いことを意味している。大戦前夜、帝政ロシアにおける生活水準が頂点に達したときに、国民所得はアメリカの8分の1ないし10分の1の低さであったというだけでも十分だろう。後進性に関して「大きさ」という言葉が使えるなら、これが、数量的に表現した後進性の「大きさ」である。

 しかし同時に、複合的発展の法則は、経済領域のいたるところに――ごく単純な現象にも、複雑きわまりない現象にも――現われる。幹線道路がほとんどないにもかかわらず、ロシアは鉄道建設を強いられた。西欧型の手工業やマニファクチュアの段階を経ることなく、ロシアはじかに機械制工場へと移行した。中間諸段階を飛び越えるのは、後進諸国では避けがたい運命なのである。

 農業は立ち後れ、17世紀の水準にとどまることもしばしばであったが、ロシアの工業は、規模はともあれ形式において先進諸国の水準に立っていたし、水準を追い抜いていることも少なくなかった。たとえば、従業員1000人以上の大企業に雇われた労働者の割合は、アメリカで全工業労働者の18%以下であるのに対して、ロシアでは41%を越えている、と言うだけで十分だろう。この事実は、ロシアの経済的後進性に関する通俗的な観念と必ずしも相いれない。とはいえ、それはロシアの後進性を否定するのではなく、弁証法的に補完するのである。

 同じように矛盾した性格を、この国の階級構造も持っていた。ヨーロッパの金融資本は、ロシアの経済を加速度的テンポで工業化した。産業ブルジョアジーは、すぐに大資本家的、反人民的な性格をおびた。そのうえ、外国人株主は国外で生活していた。これに対して、労働者は当然ながらロシア人であった。こうして、国民的な根をもたない、数の上で弱体なロシアのブルジョアジーには、国民の深部に強い根をはった比較的強力なプロレタリアートが対峙していたのである。

 プロレタリアートの革命性には、次の事実もあずかっている。すなわち、ロシアはまさに後進国として相手国に追いつかなければならず、社会的にも政治的にも自国の保守主義を生み出すまでにいたらなかったという事実である。ヨーロッパで、否、世界でも際立って保守的な国とみなされているのは、当然、最も古い資本主義国、イギリスである。他方、ヨーロッパにおいて保守主義が極端に脆弱な国は、おそらくロシアではなかろうか。

 だが、若々しく、生まれたばかりの、決断力あるロシアのプロレタリアートは、まだ国民のごく少数の集団にすぎなかった。プロレタリアートの革命的力の予備軍は、それ自身の外に、すなわち半農奴的な農民と被抑圧諸民族のうちにあった。

 

  農民

 ロシア革命の基盤をなすのは農業問題であった。古い身分制・君主制の形態は、新しい資本主義的搾取の条件のもとで、二重に耐えがたいものとなった。農村共同体の面積は約1億4000万デシャチーナ〔1デシャチーナは約1・09ヘクタール〕であった。しかし、平均2000デシャチーナ以上の土地を有する3万の大地主の所有面積は、総計7000万デシャチーナ。これは、約1000万戸の農家ないし5000万の農民の有する土地に匹敵し、しかも地主が所有するのは最上の土地であった。土地に関するこの統計は、そのまま農民蜂起の綱領となった

 貴族ボボルイキンは、1917年に、最後の国会議長を務めた侍従ロジャンコにあてて、こう記している。「私は地主であります。この私が、我が土地を失う、しかも社会主義の実験などという信じがたい目的のために失うことになるとは、得心がまいりませぬ」。だが革命は、まさに支配階級がどうしても考えられないことを達成する任務を持つものなのだ。

 1917年秋、ロシアのほぼ全土で農民蜂起が起こった。旧ロシア624郡のうちの482郡、すなわち77%にこの運動は広がった。燃え上がる農村の火の照り返しが、都市蜂起の舞台を明るく浮かび上がらせた。

 しかし、地主に対する農民の戦争はブルジョア革命の古典的要素の一つではないのか――こう、諸君は私に反問するだろう。

 まったくその通りだ、と私も言おう。ただし、それは過去のことだ。しかるに、農民蜂起は、ロシアのブルジョア階級を前方へ駆り立てるどころか、反対に結局は反動の陣営へと追いやったのだ。資本主義社会が歴史的後進国ではその生命を全うできないことが、まさしくここにはっきりと示される。破滅したくないなら、農民には工業プロレタリアートにくみするほか道はなかった。2つの被抑圧階級のこの革命的連合を、レーニンはみごとに予見し、長期的に準備を講じたのである。

 もしブルジョアジーによって農業問題の大胆な解決がなされていたなら、もとよりロシアのプロレタリアートは、1917年に権力を獲得することができなかったであろう。ところが、登場するのは遅きに失しながら老衰は早すぎたロシア・ブルジョアジーは、強欲であるにもかかわらず臆病であり、あえて封建的所有をおびやかそうとはしなかった。だが、これが原因でブルジョアジーはプロレタリアートの手に権力を委ね、同時にブルジョア社会の運命を意のままにする権利まで引き渡すことになったのである。

 したがって、ソヴィエト国家が成立するためには、異なる歴史的性格をもつ2つの要因の協同がどうしても必要であった。一つは農民戦争、すなわちブルジョア的発展の黎明期に特有の運動と、もう一つはプロレタリア蜂起、つまりブルジョア的運動の没落を告げる運動である。ここにこそ、まさにロシア革命の複合的性格がある。

 農民という熊が後足で立ち上がるとなれば、怒りはとてつもないものであろう。だが農民は、己れの憤りを意識的に表現することができない。指導者が必要なのだ。蜂起した農民は、世界史上はじめて、プロレタリアートという存在に信頼できる指導者を見い出したのだ。

 400万の工業労働者および運輸労働者が、1億の農民を指導した。これこそが、ロシア革命におけるプロレタリアートと農民との当然かつ不可避の相互関係である。

 

  民族問題

 プロレタリアートの第2の革命的予備軍をなしたのは、抑圧された諸民族であった。ただし、彼らの大多数も農民だ。この国の歴史的後進性と密接に結びついて、国家の発展には拡張的性格がある。脂のしみがにじむようにロシア国家は、中心のモスクワから周辺域へと拡張していった。東ではさらに遅れた諸民族を隷属させつつ、これを盾に西の比較的発達した少数民族を封殺した。人口の主要部をなす7000万の大ロシア人に、およそ9000万の「異民族」が徐々につけ加わった。

 こうして帝政ロシアは成立した。民族構成上では、支配民族は人口の43%を占めるにすぎず、それ以外の57%は、さまざまな文化をもち、かつ権利を剥奪された少数民族であった。民族抑圧は、ロシアにあっては隣接諸国と比較にならぬほど露骨であった。しかも、それは西欧との国境だけでなく、東のアジアとの国境をも超えていた。こうして、民族問題は巨大な爆発力を持つようになった。

 ロシアの自由主義ブルジョアジーは、民族問題においても農業問題と同様に、抑圧と暴力の体制をある程度緩和するにしても、この体制を越えて行こうとはしなかった。ミリュコーフとケレンスキーの「民主主義的」政府は、大ロシア・ブルジョアジーおよび官僚の利害を反映する一方、政権の座にあった8ヵ月間に、不満を抱く諸民族には、まさに「力ずくで奪わぬかぎり何も成就はしない」ことを、頑として思い知らせたのである。

 民族運動においては遠心的発展が不可避であることを、レーニンは早くから考慮に入れていた。ボリシェヴィキ党は、何年ものあいだ一貫して諸民族の自決権のために、すなわち完全な国家的分離の権利のために闘った。民族問題に敢然と向かうこの立場を通してのみ、ロシアのプロレタリアートは、被抑圧諸民族の信頼をしだいに勝ち得ることができたのである。民族独立運動は、農民運動とともに、否応なく公認の民主主義と対抗しつつ、プロレタリアートを強化し、10月革命へと合流した。

 

  永続革命

 なぜプロレタリア革命は歴史的後進国において起こったのか。この謎は、いま述べたようにして少しずつ顕わになっていく。

 マルクス主義の革命家は、事件の起こるはるか以前に、革命の進行と若々しいロシアのプロレタリアートが持つ歴史的役割を予見していた。ここで、1905年の私自身の著作から概要を繰り返させていただきたい。

「プロレタリアートは、経済的な後進国において、資本主義の先進国におけるよりも早く権力を獲得することが可能である……

「われわれの見解によれば、ブルジョア自由主義に立つ政治家が十分にその政治力を発揮する機会にめぐまれないうちでも、ロシア革命は、権力をプロレタリアートの手に移すことのできる(革命が勝利した場合には、移さなければならない)諸条件を創出するであろう。

「農民層のもつ最も基本的な革命的利害の運命は、……革命全体の運命、すなわちプロレタリアートの運命と結びついている。プロレタリアートは、権力を握るならば、農民層の前にこの階層を解放する階級として立ち現われることであろう

「プロレタリアートは、革命的な国民代表として、絶対主義や野蛮な農奴制との闘いにおいて認められた国民の指導者として、入閣することになろう。

「プロレタリア体制は、まっ先に農業問題の解決に着手しなければならない。この解決に、大多数のロシア国民の運命がかかっている」

 あえて右の文章を引いたのは、ほかでもない、今日私の述べる10月革命の理論が、即席に作ったその場しのぎのものでも、事態の圧力で事後的にこしらえたものでもないことの証左とするためである。それどころか、政治的予測という形では、それは10月革命にはるかに先行して存在していたのである。諸君も同意見だと思うが、理論が一般に価値をもつのは、それが発展の進行を予見し、この進行に対する合目的的な働きかけを可能にするかぎりでのことだ。一般的に言えば、ここに社会的・歴史的な指針を与える武器としてのマルクス主義のはかり知れない意義がある。残念ながら、本講演の限られた枠内では、先に挙げた引用文を敷衍することはできない。だから、私は1905年の著作全体の簡単な要約を述べるだけにとどめることとしよう。

 ロシア革命は、直接的な課題からすれば、ブルジョア革命だが、ロシアのブルジョア階級は反革命的である。それゆえ、革命の勝利は、ただプロレタリアートの勝利としてしかありえない。勝利したプロレタリアートは、しかし、ブルジョア民主主義の綱領にとどまることなく、社会主義の綱領へ移って行く。ロシア革命は、社会主義的世界革命の第一段階となるであろう。

 これこそが永続革命の理論、1905年に私が提起し、以来「トロツキズム」の名の下にきわめて激しい批判にさらされてきた永続革命の理論であった。

 だが正確にいえば、それは永続革命の理論の一部分にすぎない。いま特にアクチュアルな意味をもつ他の部分は、以下のとおりである。

 今日の生産諸力は、とうに一国の境界を超えている。社会主義社会は、一国の限界内では実現しがたい。孤立した労働者国家の経済的成功がいかに顕著であるにせよ、「一国社会主義」という綱領は小ブルジョア的ユートピアである。ただヨーロッパ社会主義共和国連邦だけが、さらには世界社会主義共和国連邦だけが、調和のとれた社会主義社会を実現するための現実的な舞台になりうるのだ。

 さまざまな出来事による試練を経た今日、私がこの理論を棄てるべき根拠は、いよいよもって存在しない。

 

  ボリシェヴィズム

 以上に述べたことからして、なおファシスト著述家マラパルテを――戦略に依らない戦術なるものをこの私に帰せしめ、かつそれを、あらゆる状況にいつも適用可能とされる蜂起の技術的処方箋にまで仕立て上げるマラパルテを――想起する価値があるだろうか。まあ少なくとも、不幸なクーデター理論家を名前により、勝利したクーデターの実践家と難なく区別できるのはよいことである。というのは、誰もまさかマラパルテをボナパルトと混同することはないからだ。

 1917年11月7日の武装蜂起がなければ、今日ソヴィエト国家は存在していないであろう。だが、蜂起そのものは、空から降ってきたわけではない。10月革命が起こるには、一連の歴史的前提が必要であった。

 1、旧支配階級たる貴族、君主、官僚の腐敗。

 2、人民大衆に根を持つことのなかったブルジョアジーの政治的脆弱さ。

 3、農民問題の革命的性格。

 4、抑圧された諸民族の問題の革命的性格。

 5、プロレタリアートの著しい社会的重み。

 これらの有機的前提に、きわめて重要な時代的諸条件を付け加えなければならない。

 6、1905年の革命は、偉大な学校、レーニンの表現によれば、1917年の革命の「総稽古」であった。ソヴィエトという、革命におけるプロレタリア統一戦線にとってかけがえのない組織形態は、1905年にはじめて形成された、とだけ指摘しておこう。

 7、帝国主義戦争はすべての対立を先鋭化し、遅れた大衆を動きのない不活性の状態から引きずり出し、これによって、壮大な規模の劇的な結末を準備した。

 だが、以上すべての条件は、革命の勃発には申し分のないものだが、革命において確実にプロレタリアートの勝利を実現するには不十分であった。プロレタリアートの勝利のためには、なお一つの条件が必要であった。それが、

 8、ボリシェヴィキ党、である。

 この条件を一連の前提の最後に挙げるのは、これが論理的な一貫性にかなうからにすぎず、意義上で党を最下位に考えているからではない。

 このような考えなど、私にはまったくない。自由主義ブルジョアジーは、たしかに権力を獲得することができるし、すでに幾度となく、己れの関与せぬ諸闘争の結果、権力を獲得してきた。そればかりか、ブルジョアジーにはすばらしく発達を遂げた諸機関もある。ところが、勤労大衆は立場が異なる。彼らはこれまで、与えるだけで、取ることに慣らされてはこなかった。働き、耐えられるかぎりは耐え、望みを抱き、耐えきれず立ち上がり、闘い、死に、他の者に勝利をさらわれ、裏切られ、意気消沈し、ふたたび屈伏して、また元どおりに働く。これが、あらゆる体制下に生きる国民大衆の歴史である。権力を確実に掌握するためには、プロレタリアートは一つの党を、思想の明晰さと革命的決断力において他の諸党をはるかに凌駕する党を必要とするのである。

 ボリシェヴィキ党は、人類史上に比類のない革命的な党であると幾度となく言われてきた。これは十分な根拠があってのことである。ボリシェヴィキ党は、まさにロシア近代史の生きた凝縮であり、この歴史に躍動するもののいっさいであった。それだけではない。ヨーロッパおよび世界の革命的発展諸傾向を、一時にせよ、ロシア・ボリシェヴィズムは最も完成された形で表現したのである。すでに久しい以前から、ツァーリズムの打倒は、経済および文化の発展にとっての前提条件となっていた。だが、この課題を解決するには、力が欠如していた。ブルジョアジーは革命に恐れをなした。インテリゲンツィアは農民層を決起させようと試みたが、己れの辛苦と目的を一般化してとらえられないムジークは、こうした呼びかけに応えなかった。インテリゲンツィアはダイナマイトで武装するようになった。一つの世代全体がこうした闘争のうちで燃え尽きたのだ。

 1887年3月1日、アレクサンドル・ウリヤーノフは、最後の一大テロ暗殺計画を実行に移した。このアレクサンドル3世暗殺の企ては未遂に終わり、ウリヤーノフと他の加担者は処刑された。革命的階級に換えて爆薬を代用する試みは破産した。いかに英雄的なインテリゲンツィアといえども、大衆なしには何者でもありえないのだ。こうした事実や結論をじかに感得しながら、ウリヤーノフの弟ウラジーミルは成長し、教育を受けた。のちにロシア史上で最も偉大な人物となるレーニンである。レーニンは、すでに少年時代からマルクス主義の基盤に立ち、プロレタリアートに関心を向けた。また、一瞬も農村を見失うことなく、労働者が農民に接近する道を探し求めた。革命的先駆者の決断力と自己犠牲の能力、最後まで貫き通す心情を受け継いだレーニンは、若くしてインテリゲンツィアの新しい世代や先進的な労働者を導く教師となった。ストライキや街頭闘争で、また監獄、亡命地で、労働者たちは必要な鍛錬を受けていた。彼らに必要だったのは、独裁体制の暗黒のなかで、歴史的な道筋を照らし出すマルクス主義という前照灯であった。

 1883年には、亡命者たちの間で最初のマルクス主義グループが生まれた。1898年には、秘密会議が開催され、ロシア社会民主労働党の結成が宣言された(当時われわれは皆、社会民主主義者と称していた)。1903年、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの間に分裂が生じた。1912年、ボリシェヴィキ派は最終的に一個の独立した党となったのである。

 この党は、12年間(1905〜17年)の闘い、壮大な諸事件を経て、社会の階級的メカニズムを認識できるようになった。党は、イニシアチヴを発揮しかつ規律に従う有能なカードルを養成した。革命的行動の規律は、理論の統一と共同闘争の伝統、試練をへた指導部に対する信頼をよりどころとしていた。

 これが、1917年の党であった。公認の「世論」なるものやインテリ新聞の紙上での論難を意に介することなく、党は大衆の運動に依拠した。党は経営と軍隊に確固たる指導権を有していた。農民大衆は、ますます党に引きつけられていった。もし「国民」という言葉が特権的な上層ではなく、人民の多数者、すなわち労働者と農民を意味するのだとすれば、ボリシェヴィキは、1917年を通してロシアの真に国民的な党となったのである。

 1917年9月、余儀なく潜伏していたレーニンは、合図を送った。「危機は熟した。蜂起の時機は近づいた」。レーニンの判断は正しかった。支配階級は、戦争や土地、民族解放という諸問題を前に、進退きわまっていた。ブルジョアジーはついに度を失った。民主主義諸党――メンシェヴィキと社会革命党――は、帝国主義戦争を支持し、ブルジョアや封建地主に無力にも妥協や譲歩の政策をとったので、大衆のうちになおあった最後の信頼をむざむざ失ってしまった。目覚めた兵士たちは、もはや関係のない帝国主義の目的のために闘おうとはしなかった。民主主義諸党の忠告を無視して、農民は地主を土地から追い出した。周辺の被抑圧民族はペトログラードの官僚に抗して立ち上がった。最も有力な労働者・兵士ソヴィエトでは、ボリシェヴィキが優勢を占めた。労働者と兵士たちは行動を要求した。腫れ物は化膿しきっていた。メスでの切開が必要であった。

 こうした社会的・政治的諸条件のもとにおいてのみ、蜂起は可能になり、そして必然的なものともなったのである。だが、蜂起をもてあそぶことはできない。ぞんざいにメスを扱う外科医は災いなるかな。蜂起は一つの技術だ。それには独自の法則と規則があるのだ。

 党は10月蜂起を透徹した予見とはげしい決意とを以て貫徹した。まさにこのおかげで、蜂起はほとんど犠牲なしに勝利することができたのである。勝利したソヴィエトを通して、ボリシェヴィキは地表の6分の1を占める国のトップに立った。

 ここにおられる諸君の大半は、推定するに、1917年にはなお政治と関わりがなかったであろう。なければますます結構。若い世代の前途には、必ずや多くのおもしろいことが、たとえ容易ならざるものにせよ、待ち受けているだから。他方、この会場にいる古参の代表諸君は、ボリシェヴィキの権力獲得がどのように受けとられたか、きっと鮮明に記憶されていることであろう。それは珍事、何かの行き違い、スキャンダルのように、しばしば、暁光とともに跡形もなくなる悪夢のように受けとられもした。ボリシェヴィキは持ちこたえて24時間であろう。いや1週間か、1ヵ月か、1年か。期間は先へ先へ延長されねばならなかった。全世界の支配者たちは、最初の労働者国家に対する戦争準備を整えた。内戦をあおり、繰り返し干渉戦争をしかけた。そして封鎖。1年また1年が経過していった。そうこうするうちに、歴史は15年間、ソヴィエト権力の存在を記録しなければならなかったのである。

 こう反対する者もいるだろう。たしかに、10月の冒険はわれわれの多くが考えていたよりはるかに堅固なものであった。あるいは、それは「冒険」ですらなかったのかもしれない。にもかかわらず、問題は一つとして解決されていない。はたして、このような非常な冒険を賭して、何が達成されたのか。ボリシェヴィキが革命前夜に宣言した、かの崇高な任務はいったい実現されたのか。――この仮想の反対者に応える前にまず、問題それ自体は新しくはないことを指摘しておこう。反対に、この問題は10月革命が起こった日から、革命につきまとっているのである。

 革命の最中ペトログラードに滞在していたフランス人ジャーナリスト、クロード・アネは、すでに1917年10月27日に、こう記している。

「最大限綱領主義者たち(フランス人は当時ボリシェヴィキをこう呼んだ)が権力を握り、待ちに待った日がやって来た。とうとう、すでに約束されて久しい社会主義の楽園の実現をこの目でみることになるのだ――こう私はつぶやいた。……みごとな冒険! 千載一遇!」

 云々、云々。皮肉な物言いのうちに、なんと率直な嫌悪が語られていることだろうか。冬宮陥落で迎えたその朝、早くもこの反動的ジャーナリストは、楽園への入場証を求めて取り急ぎ申請をしているのである。革命以来15年の歳月が流れた。それだけに敵対者たちは、ますます無遠慮に悪辣な喜びを露わにして、ソヴィエトの国が今日もなお全般的な生活の豊かな王国と似ても似つかないことを揶揄している。要するに、何のための革命か。何のための犠牲であったのか、というのだ。

 諸君、ソヴィエト体制のかかえるさまざまな矛盾や困難、誤り、苦悩については、私は他の誰よりもよく知っているつもりである。私個人としては、演説においても著作においても、これらを隠したことはまったくない。革命の政治は、保守政治と異なり、隠蔽・偽りの上に築くことはできない、と私は考えていたし、いまも同じ考えだ。「現状をあるがままに言い表わすこと」、これが労働者国家の最高原則でなければならない。

 しかし、批判においては、創造的活動と同様に、正しい釣り合いが必要である。主観主義は、大きな問題ではなおさら、あてにならない。期間というものは、課題にふさわしく設定されるべきであって、個人の思いつきによるのであってはならない。15年、である。個人の生涯にとっては、この年月はどんなに長いことであろう。この期間に、われわれの世代の少なからぬ人々が世を去り、残された者も白髪が目立つようになった。だが、同じこの15年が、一国民の生涯においては、いかに取るに足らない期間であろうか。歴史の時計では、一瞬にすぎない。

 資本主義は、数世紀をかけて中世との闘争に打ち勝ち、科学と技術を高め、鉄道を建設し、電線を敷設した。だが、結果はどうなったか。人類は、資本主義によって、戦争と恐慌の地獄に突き落とされたのだ。ところが、社会主義に対してはどうだろう。その反対者たち、すなわち資本主義の支持者たちは、この地上に近代的な快適さあふれる楽園を建設するのにわずか15年しか認めなかったのだ。しかし、このような義務を、われわれは身に引き受けたことはない。このような期間をわれわれは設定していない。偉大な変革過程は、それにふさわしい基準で計らなければならない。社会主義社会が聖書の楽園に似るのかどうか、私には分からない。そうはなるまいと思う。だが、ソヴィエト連邦にはいまだ、いかなる社会主義も存在していないのだ。この国にあるのは、矛盾に満ちた一つの過渡的状態であり、過去の重苦しい遺産を背負わされ、資本主義諸国の敵対的圧力下にさえ置かれた現状である。10月革命は新しい社会の原理を宣言した。ソヴィエト政権はただ、それを実現する第一段階を示したにすぎない。エジソンの作った最初の電球はきわめて劣悪なものであった。最初の社会主義建設にみられる誤りや失敗のうちから、未来を区別するすべを知らなければならない。

 

  革命の犠牲

 しかし、生きた人間の上に降りかかる艱難はどうなのか。革命の結果は、はたして革命の招いた犠牲を正当化するのだろうか。だが、この問いは、まったくもって修辞的であり、不毛である。あたかも歴史の過程に収支決算書を作成できるかのごとくではないか。それが正当なら、同じように、人間生活にある困難や辛苦を目の前にして、こう問うこともできるであろう。「いったい、この世に生まれるだけの価値があるのだろうか」。ハイネはこれに、こう記した。「しかも、愚か者は答えを期待する」と。だが、こうした思いわずらいも、人間が生を与え、生を受けることの妨げにはならなかった。自殺は、未曽有の世界恐慌に見舞われた今日でさえ、幸いにも取るに足らないパーセンテージである。もっとも、国民が自殺に逃避するというのは、いかなるときもない。耐えがたい窮迫におそわれたら、国民は革命に活路を求めるものなのだ。

 ところで、社会主義革命における犠牲に憤るのは、いったい誰なのであろうか。それは何といっても、帝国主義戦争の犠牲のために道を掃き清め、それを賛美する者たち、あるいは少なくとも犠牲を易々と受け入れてきた者たちだ。いまやわれわれが問う番である。戦争は正当化されたのか。何を戦争は与えたのか。何を教えたのか。

 反動的歴史家イポリット・テーヌは、フランス大革命に対する11巻もの論難書の中で、悪辣な喜びをかくさず、ジャコバン独裁とそれ以後にフランス国民がなめた苦しみを詳しく描写している。貧苦をきわめたのは、都市の下層階級たる平民たちであった。彼らはサンキュロットとして、己れのすべてをなげうって革命に尽くした。ところがいまや、平民たち、あるいは彼らの妻たちは、冷たい夜を徹して長蛇の列に並びながら、翌早朝には手に何も持たず、火の消えた家へ帰らねばならない。革命の10年間で、パリは、革命の勃発以前よりも困窮するようになったのだ。

 入念に選ばれ、作為的に寄せ集められた事実によって、テーヌは自己の革命に対する破滅的裁決を正当化する。見よ、平民どもは独裁者たらんとしたが、みずから零落してしまったではないか。これ以上に皮相な説教は、思いつくのもむずかしい。フランス大革命は、飢えた大衆がパン屋の前の長蛇の列をなした事実に尽きるわけではない。近代フランスの全体が、ひいては多くの点で近代文明の全体が、フランス革命に浴することから生まれたのである。

 19世紀の60年代に起こったアメリカの南北戦争では50万人が死亡した。これらの犠牲は正当化できるだろうか。

 アメリカの奴隷所有者および彼らと利害を共にしたイギリスの支配階級の立場からすれば、ノーである。だが、黒人やイギリス労働者の立場からは、文句なしにイエス。そして、全体としての人類の発展という立場からしても、何の疑いもありえない。60年代のこの内戦のなかから、今日の合衆国が、驚くべき実践的イニシアチブと合理化された技術、経済的活気をもつ合衆国が生まれた。アメリカ精神の達成したこれらの成果の上に、人類は新しい社会を建設することであろう。

 10月革命は、先行するあらゆる革命よりも深く、社会の至聖域、すなわち所有諸関係に侵入した。それだけに、革命の創造性に富む結果を生活の全領域に現わすには、長い期間が必要だ。だが、変革の一般的方向は、すでに明らかである。資本主義の側から告発する者を前に、ソヴィエト共和国が悄然と頭をたれ、弁解するいわれなどまったくない。

 

  労働生産性の成長

 進歩をはかるさいに、何よりも本質的かつ明白な客観的基準は、社会的労働生産性の成長率である。10月革命の評価は、この観点からするなら、すでに経験によって与えられている。社会主義的組織という原理は、歴史上はじめて、短期間にかつてない成果を達成する生産能力のあることを証明したのである。

 ロシアにおける工業発展の曲線は、大まかな指数で表すと、以下の通りである。戦争直前の1913年を100とすると、内戦のピークにあたる1920年はまた、工業も最低の25、つまり戦前生産の4分の1にすぎなかった。1925年には戦前生産の4分の3にまで成長。1929年には約200、1932年には300、つまり戦争前の3倍に達している。

 国際的な指標でみれば、この表は、さらに顕著になる。1925年から1932年までに、ドイツの工業生産は、ほぼ3分の2減少し、アメリカはおよそ2分の1減ったが、ソヴィエト連邦では4倍を上回る。これらの数値は説明するまでもあるまい。

 ソヴィエト経済の欠陥を、私は否定したり、隠蔽したりするつもりはない。工業指数の示す成果は、農業の思わしくない発展により非常に損なわれている。農業の領域は、本質的にまだ社会主義的あり方にまで高められていないにもかかわらず、同時に、十分な準備もなく、技術的・経済的にというよりは官僚的に集団化の道がとられたからである。これは大問題だが、本講演の範囲を越える。

 右に示した指数は、なお一つの本質的な留保を要する。ソヴィエト工業化の成果は、争う余地のない、それなりに目覚ましいものであるとはいえ、さらに、経済における種々の要素相互の適合性、諸要素のダイナミックな均衡の観点から、したがって生産能力という観点から、経済学的検討が必要である。この点では、なお重大な困難や退化さえもが避けられない。社会主義は、5ヵ年計画から完全な形で生まれてくるものではない。ミネルヴァがジュピターの頭から生まれ、ヴィーナスが海の泡から生まれたようにはいかないのだ。なお数十年にわたるねばり強い労働が、また過ちや改良、改造がなされなければならないであろう。ともあれ、社会主義建設は、本質からして、国際的舞台においてのみ完成されうることを忘れないようにしよう。

 だが、これまでに得られた諸結果に関してどれほど不利な経済収支の対照表をとっても、予測の不正確さとか、計画の誤り、指導部の失敗が露わになるだけであろう。経験的に確定された事実、すなわち社会主義的な方法によれば、集団的労働の生産性をかつてない水準に高めることが可能だという事実は、けっして論破されない。われわれが獲得した世界史的に意義あるこの成果を、誰であれ、何物であれ奪うことはできない。

 

  2つの文化

 以上に述べたことからすれば、10月革命がロシア文化を衰退せしめた、などという怨嗟の声については詳しく論ずるまでもないであろう。こうした声は、動揺した支配層の邸宅やサロンで聞かれる。だが、プロレタリア革命により覆された貴族的なブルジョア「文化」は、金メッキをした野蛮にすぎなかった。それは、ロシア国民には近寄りがたいものであったけれども、人類の宝物庫にさほど新しい価値をもたらしはしなかった。

 とはいえ、白系ロシア人亡命者が悲嘆にくれるこの文化についても、問題はいっそう正確に、こう規定されなければならない。すなわち、それは、いかなる意味で破壊されたのか、と。意味はただ一つ。文化的財に対する少数者の独占が廃止されたということである。だが、ロシア文化において真に文化的価値のあるものはいっさいが、損なわれることはなかった。ボリシェヴィズムなるフン族は、思想上でかち得た所産にせよ、芸術作品にせよ、踏みにじったことはない。反対に、人間の創造した文化遺産を丹念に収集し、理想的な形に配列を施した。君主と貴族、ブルジョアジーの文化は、いまや博物館の文化になっているのである。

 国民は熱心にこれらの博物館を訪れている。もとより、このような博物館のなかに生きているわけではない。国民は学び、建設する。10月革命がロシア国民に、帝政ロシアの数十の諸民族に読み書きを教えたという事実一つだけでも、旧ロシアの温室的文化全体と比べ、計り知れぬほど高くそびえたつ。

 10月革命は、選ばれた者のためでなく、すべての者のためにある新しい文化の基礎を据えた。これは全世界の大部分が感じていることだ。ここから、ソ連邦に対する世界の共感が生まれる。その熱烈さは、かつて帝政ロシアに抱いた憎しみに匹敵するものだ。

 諸君もご存じの通り、人間の言語は、出来事を命名するだけでなく、それを評価するためにもかけがえのない道具である。言語は、偶然的なものやエピソードにすぎぬもの、見せかけのものを選り分け、本質的なもの、特徴的なもの、意味深いものを吸収する。文明諸国の言語が、ロシアの発展における2つの時期をいかに鋭敏に区別しているか、注目しよう。帝政ロシアの貴族の文化が世界に伝来させたのは、ツァーリ、コサック、ポグロム(ユダヤ人虐殺)、ナガイカ(革ムチ)といった粗野な言葉であった。諸君はこれらの単語を熟知し、意味するところもお分りであろう。10月革命が世界の言語に紹介した単語は、次のごとくである。ボリシェヴィキ、ソヴィエト、コルホーズ、ゴスプラン、ピャティレトカ(5ヵ年計画)。ここでは実地の言語学が、最高の歴史的な審判を下すのだ。

 

  革命と国民の性格

 あらゆる大革命の有する意義において、深甚ながら直接的判定がきわめて困難なのは、革命が国民の性格を形成し、かつ鍛えるという点である。ロシア人に関しては、のろまで受動的かつ陰欝だという観念が広く行き渡っている。これは偶然でなく、根拠は過去にある。しかし、今日にいたるまで西欧では、革命が国民の性格にもたらした深刻な変革に、十分な考慮がなされていない。かかる変革などなかったはずだとでもいうのだろうか。

 人生経験を積んだ者なら誰しも、知人のうちにいたこんな青年の記憶を呼び覚ますことができるであろう。すなわち、感じやすく、情緒的できわめて繊細な感覚の持ち主だったのが、のちに突然、何か強い精神的な衝撃を受けてずっと力強く鍛えられ、見違えるほどに成長した、という青年の記憶である。国民全体の発展においては、こうした精神的変革をもたらすのが、革命である。

 独裁制に対する2月蜂起をはじめ、貴族に対する闘争、帝国主義戦争に反対する闘争、また、平和のための闘争や土地獲得、民族的同権のための闘争、10月蜂起、ブルジョアジーおよびそれとの妥協を重ねようとする諸党の打倒、8000キロにおよぶ戦線での3年間の内戦、封鎖と窮乏、飢餓、疫病がつづいた数年間、緊迫した経済建設と新たに生まれる諸困難、苦難の歳月――これらの経験は、きびしいが、すぐれた学校である。強力なハンマーは、ガラスを打ち砕くが、鋼鉄を鍛えもする。革命のハンマーは、国民の性格という鋼鉄を鍛え上げる。

 ツァーリの将軍ザレスキーは、革命のすぐ後、憤りをこめて次のように記している。

「突如として、門衛や夜警が裁判長になり、看護人が病院長に、床屋が高官に、見習士官が最高司令官に、日雇い労務者が市守備隊長に、工員が職工長になるなどと、誰が信じようか」

 「誰が信じようか」。だが、すぐに信ずるほかはなかった。見習士官が将軍たちを撃破し、市守備隊長――かつての日雇い労務者――が旧官僚の抵抗を打ち破り、さし油工が運輸システムを整備し、工員が管理者として産業を良好に維持するのを見ては、信じないわけにはいかなかったのだ。「誰が信じようか」。信じないというなら、好きにすればよろしかろう。

 ソヴィエト連邦の国民大衆は革命の数年間に非常なねばり強さを示す。この強さを説明するために、昔からの習慣により、ロシア人の受動性を引き合いに出す外国の観察者も少なくない。アナクロニズムもはなはだしい。革命的大衆は苦難を辛抱強く耐えている、といってもけっして受動的なものではない。彼らは自らの手でよりよい未来を創りつつあり、是が非でも、創るつもりでいる。この辛抱強い大衆に、階級敵が外から自己の意志を押しつけようというなら、ともかく試してみることだ。いや、むしろ試さぬほうがよいだろう。

 

  経済を理性に従属させる

 最後に、10月革命の占める位置、ロシア史上だけでなく、世界史上で占める位置の確定を試みることにしよう。

 1917年には、8ヵ月の間に歴史の2つの曲線が交差した。2月革命は、過去の数世紀間にオランダやイギリス、フランスなど、ほぼ大陸ヨーロッパの全域で起こった偉大な闘争の遅ればせの反響であり、一連のブルジョア革命に連なる位置を占める。これに対して10月革命は、プロレタリアートの支配を宣言し、その時代を開いた。ロシアの地で最初の大敗北を喫したのは、世界資本主義であった。鎖はその最も弱い環で破られる。だが、破られたのは鎖そのものであり、環だけではなかったのだ。

 資本主義は、世界システムとしては時代遅れになった。それは、人間の力と富を高めるという本質的使命を果たさなくなった。人類がこれまでの到達段階にいつまでもとどまることは不可能である。生産諸力の強固な発展と、適正かつ計画的な、すなわち社会主義的な生産・分配の組織によってこそ、人間は――すべての人間が――品位ある生活水準を保証され、同時に自己のつくる経済に自由を感じる得がたい感情を持つことができるようになる。

 ここでいう自由には、2つの意味がある。第一に、人間はもはや、生活の大部分を費やして肉体労働するよう強制されはしない、ということ。第2に、人間はもはや市場の法則に、すなわち己れのあずかり知らぬところで生ずる隠れた正体不明の力に左右されない、ということである。人間は、経済を自由に、すなわち計画的に、羅針盤を手に建設することになろう。ここで肝要なのは、社会の構造を徹底的に精査し、社会のあらゆる秘密を解明し、あらゆる機能を人間集団の理性と意志に従わせることである。

 この意味において、社会主義は人類の歴史的前進の新たな一段階を画するのでなくてはならない。はじめて石斧を武器としたわれわれの祖先にとっては、自然の全体が、不可思議な敵対的諸力の企てる謀りごとであった。以来、自然諸科学は実用的なテクノロジーと手を結び、自然の内奥の秘密までも解き明かしてきた。電気的エネルギーにより、物理学者は原子核について判断を下す。科学が練金術の課題を易々と解決し、堆肥を金に、金を堆肥に変換するようになる時代の到来も、遠いことではない。かつて悪魔と自然が猛威をふるっていた場に、いまや人間の工業的意志がますます支配を及ぼしつつある。

 ところが人間は、自然との闘いに勝利をおさめる一方、他の人間に対する関係を、まるでミツバチかアリのごとく盲目的につくり上げた。人間社会の問題への接近は遅れ、しかも、きわめて優柔不断なものであった。人間はまず宗教から始め、しかるのちに政治に移っていった。宗教改革は、死んだ伝統の支配していた領域において批判的理性が成し遂げた最初の成果であった。批判的思考は教会からさらに国家にまで及んだ。絶対主義と中世的身分制との闘争で、国民主権、人権および市民権の学説が生まれ、力を得た。こうして議会制度が成立した。批判的思考は、国家行政の領域へと浸透した。民主主義という政治的合理主義は、革命的ブルジョアジーの勝ちえた最高の功績であった。

 ところで、自然と国家との間に位置するのが経済である。技術は、古来の自然力――地、水、火、風――の専制からは人間を解放したが、結局は技術それ自身の専制に人間を従属させただけであった。人間は自然の奴隷たることをやめたが、いまや機械の奴隷となり、さらに悪いことには、需要と供給の奴隷となった。現在の世界恐慌がとくに悲劇的な形で示しているのは、大海の底に潜り、成層圏にまで飛翔し、眼に見えない電波で地球の反対側と話を交わす人間が、この誇り高い、大胆不敵な「自然の支配者」が、いかに己れ自身の経済から生まれる見えない力の奴隷になったままであるか、ということだ。現代の歴史的課題は、制御のきかない市場の運動を理性的な計画にとって換えること、生産諸力を制御すること、すなわち、均衡のとれた働きをして、人間の諸欲求のために役立ちうるよう、生産諸力を規制することにある。この新しい社会的基礎の上に立ってこそ、人間は疲れた背筋をのばすことが可能になり、そして――選ばれた者だけでなく、あらゆる男女が――思想の世界において完全な権利をもつ市民となるのだ。

 

  人類の発展

 だが、これはなお道程の終末ではない。それどころか、それは始まりにすぎない。人間はみずからを万物の霊長と呼んでいる。こう呼ぶだけの権利が人間にはある。だが、現在の人間がホモ・サピエンスという類の最後にして最高の代表であると、誰が主張しただろうか。むしろ、肉体的にも精神的にも、現在の人間は完全性からはるかに隔たった存在なのだ。人間は生物学的に早産である。その思考は虚弱であり、新たな有機的な平衡を、なお人間はつくりだしてはいない。

 なるほど、人類は山脈の峰のように同時代人の上にそびえたつ思想と行動の巨人を、これまでに幾度となく生み出してきた。アリストテレスをはじめ、シェイクスピア、ダーウィン、ベートーベン、ゲーテ、マルクス、エジソン、レーニンらを、人類は誇りに思ってよい。だが、何ゆえにこのような人物はかくも稀有なのであろうか。それはまず何よりも、彼らがほぼ例外なく上流ないし中流階級から生まれたからである。稀な例外を除けば、国民の抑圧された深奥では、天賦の才は、輝きをもつ前に窒息させられてしまったのだ。だが、もう一つ理由がある。それは、人間を生み育て、教育する過程が、本質的に現在にいたるまで一貫して偶然事に属していたこと、すなわち、なお理論と実践によって解明され、意識と意志に従わせる、という域に達していなかったことである。

 人類学や生物学、生理学、心理学は、山のごとき材料を蓄積し、いまや人間に対して、人間自身の肉体的・精神的な完成といっそうの発展を成就するという課題を、十全な形で立てるまでになった。精神分析学は、ジクムント・フロイトの卓越した手で、詩的に人間の「魂」といわれる原泉のおおいをとり払った。では、何が証明されたのであろうか。われわれの意識的な思考は、隠された精神諸力の作用の一小部分にすぎないということである。学識のあるダイバーなら、大海の底に潜り、そこで神秘的な魚の写真を撮る。人間の思考は、自己自身の魂なる原泉の底まで降りて行くことにより、精神を動かす神秘的な力に光をあて、それを理性と意志に従わせるようにしなければならない。

 人間社会における無政府的な諸力を意のままに制御しうるようになれば、人間は自己自身の制作に、化学者の乳鉢とレトルトをもって、とりかかるであろう。人類ははじめて、自己自身を原材料として、あるいは、せいぜいのところ肉体的・精神的な半製品としてみなすようになる。矛盾に満ち、均衡を失した現在の人間は、新しい、いっそう恵まれた人類に道を拓くであろう。この意味でも、社会主義は必然の王国から自由の王国への飛躍となるのである。

コペンハーゲン、1932年11月27日

ドイツ語版『トロツキー著作集』第1巻『ソヴィエト社会とスターリン独裁』第2巻

『トロツキー研究』第5号より


  

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