反戦大会に関する手紙

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】本論文は、スターリニスト官僚が、隠蔽された形で、平和主義者や改良主義者とともに反戦大会を開こうとしていることを批判した手紙である。スターリニスト官僚は、ドイツでは、改良主義者とのあらゆる統一戦線に反対しながら、国際的舞台では、ロマン・ロランやバルビュスを前面に立てる形で腐った統一戦線政策を進めようとしていた。トロツキーは、このような企ての裏切り的性格を無慈悲に暴いている。

 本稿の翻訳はすでに、『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)に収録されているが、アップするにあたって、『反対派ブレティン』に掲載されているロシア語原文にもとづいて点検し修正を加えている。

Л.Троцкий, Письмо о конгрессе против войны, Бюллетень Оппозиции, No.28, Июль 1932.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


  親愛なる同志諸君!

 私の手元にパリの雑誌『ル・モンド』6月4日号がある。『ル・モンド』の発行者はバルビュス(1)で、現在これは、「偉大な反戦大会」を招集するための一種の中央機関誌のようなものになっている。この雑誌の3頁には、ロマン・ロラン(2)とアンリ・バルビュスのアピールの抜粋がある。このアピールの性格と精神は次の文章によって十分に明らかである。

「われわれは、その政治的所属にかかわりなくすべての人々、すべての大衆に、そしてすべての労働組織――文化、社会、組合関係の――に、大衆的なすべての勢力とすべての組織に呼びかける! 戦争に反対する国際大会に結集しよう!」。

 その次にロランのバルビュス宛ての手紙から次のような文章が抜粋されている――「私の意見は、大会は戦争に反対する誠実で決然たる闘争という共通の基礎にもとづいてすべての政党と無党派の人々に開かれていなければならないということです」。さらにロランは、この闘争において第1の位置をしめるのは労働者階級でなければならないというバルビュスの意見に同意している。さらに続けて、大会に参加する人々の最初の名簿が掲載されている。これは、フランスとドイツの急進派や半急進派の作家、平和主義者、人権同盟のメンバー、等々によって構成されている。

 さらに著名なエミール・ヴァンデルヴェルデ(3)からの次のような金言が引用される。

「あらゆるところで戦争は……一方において革命的不満の爆発をもたらし、他方では偏狭な民族主義の激しい反動をもたらしている。それぞれのインターナショナルが戦争を阻止するためにその力を統一することが、かつてないほど必要になっている」。

 ヴァンデルヴェルデのこの文章はベルギー社会党の新聞『ル・パープル』1932年5月29日号からの引用であり、つづいてフランス共産党中央機関紙『ユマニテ』1932年5月31日号から次のような文章が転載されている。

ロマン・ロランとアンリ・バルビュスによるジュネーブ国際大会参加の呼びかけに『参加する!』と応えよう」。

 統一労働総同盟(CGTU)中央機関誌『ラ・ヴィ・ウーブリエール』の最新号には、ロランとバルビュスの呼びかけに全面的に同意する文章が掲載されている。

 したがって、事態はいまや完全に明らかである。フランス共産党とその指導下の労働組合組織がこの大会の提唱者を支持しているのだ。共産党の背後にいるのはコミンテルンである。問題になっているは新しい世界戦争の危険性である。この危険性に対する闘争において、同伴者――小ブルジョア平和主義者のうち最も真面目で断固たる人々、あるいは、ある程度までそうなりうる人々――を利用することも必要である。しかしながら、いずれにしても、このことは、第3級の――第10級ではないにせよ――重要度の問題にすぎない。国際プロレタリアートの目の前でイニシアチブをとるべきであったのは、コミンテルンとプロフィンテルンである。最も重要なことは、第2およびアムステルダム・インターナショナルに組織されている労働者大衆をわれわれの側に首尾よく獲得することである。

これを実現するのに役立つのは統一戦線政策である。第2インターナショナル執行委員会の最近の会議は、日本に反対して「ソヴィエト連邦を防衛する」と声明した。指導者の決意が問題になっているかぎりにおいて、われわれはこの防衛の重みと価値がどのようなものであるかを知っている。しかし、この決議が採択されたという事実そのものは大衆の圧力を示すものである(恐慌および戦争の危険性)。このような状況のもとでコミンテルンには、国際的規模で統一戦線政策を展開する義務がある。すなわち、戦争の危険性に抗する厳密に練り上げられた実際的行動綱領を世界プロレタリア階級の前で第2およびアムステルダム・インターナショナルに公然と提起しなければならない。

 だがコミンテルンは沈黙している。プロフィンテルンは沈黙している。イニシアチブは2人の平和主義的作家に引き渡された。その一人であるロマン・ロランは疑いなく偉大な作家であり、偉大な個性の持ち主であるが、あらゆる政治の外に立っている人物である。もう一人のバルビュスは平和主義者で神秘主義者であり、共産党員であるとも共産党から除名されたともつかない人物で、いずれにしても社会民主主義との共産党の完全な合併を吹聴している。「われわれのもとに結集せよ」とロランとバルビュスが呼びかける。「『参加する!』と応えよ」と『ユマニテ』が唱和する。公認の共産主義が小ブルジョア平和主義にこのように這いつくばる姿以上におぞましく、屈服的で、犯罪的なことを想像することができるだろうか?

 ドイツでは、改良主義的指導者を暴露するために労働者大衆組織に統一戦線戦術を適用することは許しがたいと宣言される。それと同時に、国際的レベルで統一戦線政策が適用されるが、その第1歩は、並いる改良主義的裏切り者のうち最悪の連中のための広告になりはてている。ヴァンデルヴェルデはもちろんのこと「平和に賛成」である。彼は、戦時ではなく平時に自国の国王の大臣として仕えることがはるかに有利で好都合だと考えている。社会愛国主義者にして、たぶんベルサイユ講和条約の署名者であるこの人物の恥知らずな金言が、「偉大な反戦大会」の綱領になっている。そして『ユマニテ』はこの背信的で有害きわまりない仮面舞踏会の共犯者となっている。

 ドイツで問題になっているのは、労働者階級のみならずその改良主義組織と改良主義指導者さえも直接的に脅かしているファシストの反革命的ポグロムを阻止することである。社会民主主義の紳士諸君にとって問題になっているのは、俸給、大臣としての特権、さらには彼らの身の安全である。ファシズムと社会民主主義との巨大で先鋭な矛盾をプロレタリア革命のために正しく系統的に利用することを拒むことができるのは、官僚的愚鈍の泥沼に沈み込んだ者だけである。

 だが戦争の問題においては事情はまったく異なる。戦争は改良主義組織――とくにその指導者――を直接脅かすものではまったくない。それどころか、経験の示すところによれば、戦争は改良主義指導者に目のくらむような出世の道を開く。愛国主義こそがまさに、社会民主主義を民族ブルジョアジーに何より緊密に結びつけているイデオロギーである。ファシズムが社会民主主義の首に手をかけようとしたならば(ファシズムはそうするだろう)、社会民主党は、何らかの形で、ある一定の限界内で、ファシズムから自らを防衛しようとすることは、ありうることだし、不可避でさえある。しかし、ブルジョアジーが宣戦を布告したときには、たとえそれがソヴィエト連邦に対するものであったとしても、社会民主党(それがどの国であれ)が、自国のブルジョアジーに対する闘争を行なうというようなことは、絶対にありえない。戦争に反対する革命的カンパニアは、特別かつ独自の課題として、社会民主党的な平和主義の欺瞞と腐敗を暴露しなければならない。

 ではコミンテルンは何をしているのか? それは、各国レベルでは社会民主主義と民族ファシズムとのまったく現実的で深刻な対立を利用することを禁止しながら、国際的レベルでは国際社会民主主義とその帝国主義的主人との幻想的かつ偽善的な対立にしがみつこうとしている。

 ドイツでは統一戦線は全面的に禁止されているのに、国際的舞台において統一戦線は、最初から、まったく欺瞞的で腐敗した性格を粉飾し覆いかくすものとして展開されている。誠実きわまりないロマン・ロランの理想主義的無邪気さを利用しつつ、すべてのペテン師と面目を失った出世主義者、社会民主主義の元大臣や大臣候補は「参加する!」と宣言する。このような連中にとって反戦大会は一種の保養所であり、そこで彼らは、少しばかり傷ついた評判を回復し、その後で自分たちをもっと高く売り込もうとするであろう。反帝国主義同盟(4)の参加者もまさにそのようにふるまった。われわれの前にあるのは、国民党と英露委員会の経験の、世界的規模における再現である。

 国際スターリニスト分派を中間主義と規定するわれわれの正しさを疑う衒学家がいる。出来損ないの教科書で毒された人々は、生きた事実から学ぶことができない。まさにここにあるのは、理想的で典型的で普遍的で地球規模の中間主義であり、それがわれわれの目の前で生きて活動している。その鼻先は右をむき、その尻尾はいぜんとして左に強く振られている。この鼻先と尻尾をつなぐ線を引くと、中間主義の軌道が得られるのだ!

 歴史は転換点にいる。世界全体も今や転換点にいる。そして中間主義も転換点にいる。ソ連において、スターリニストは、5年で階級を廃止するというたわ言を言い続けながら、同時に自由市場を復活している。極左主義の尻尾は賢い日和見主義的頭が決めたことをいぜんとして知らない。ソ連の文化政策の問題において、右への大転換が生じた。もちろん、いかなる説明もない無言の転換であり、それだけにいっそう居丈高な転換である。同じ過程がコミンテルンの政策においても生じている。不幸なピャトニツキー(5)はいぜんとして極左主義の残り物を口にくわえているのに、マヌイリスキー(6)のような連中は、背骨と関係なく頭を右に回せという指令をすでに受け取っている。エピゴーネンの政策の9年間というもの、その原則の欠如、イデオロギーの貧困、実践におけるペテン行為を、現在ほど露骨で恥知らずな形で暴露したことは一度としてなかった。

 ボリシェヴィキ=レーニン主義者諸君! 重大な歴史的転換の徴候が世界規模で累積しつつある。このことはわれわれの分派の運命に影響しないわけにはいかない。われわれは現在すでに、真に偉大な歴史的任務をになっている。戦争に反対する闘争は、何よりも平和主義の仮面舞踏会と中間主義官僚のペテンに対する闘争を意味する。われわれはこの機構の矛盾を暴露する無慈悲なカンパニアを展開しなければならない。彼らの破産は迫りくる偉大な事件を前にしては不可避である。

 ソ連の防衛は、スターリニスト官僚の友人たち――必ずしも無心とはかぎらない――が振りかざしているサロン的空文句ではない。ソ連の国際的防衛は今や、プロレタリアートの国際的な革命的闘争にますます依存するようになっている。数百万の人々の血と運命が賭けられているときには、最大の明瞭さが必要である。今日、スターリンの機構以上に階級敵に奉仕しているものはいない。この機構は、その特権を守るために、あらゆるところで混乱と混沌をまきちらしている。

 ボリシェヴィキ=レーニン主義者諸君! 諸君の責任は重大である。現在、すべての革命家がその真価を示すべきときが迫っている。マルクス主義とレーニン主義の思想を先進的労働者の隊伍に持ち込もう。すっかり理性を失ったスターリニスト官僚の拘束衣を国際プロレタリア前衛が脱ぎ捨てるのを援助しよう。問題になっているのは小さなことではない。問題になっているのは、ソヴィエト連邦と世界プロレタリア革命の運命である。

1932年6月13日

『反対派ブレティン』第28号所収

『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)より

 

  訳注

(1)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

(2)ロラン、ロマン(1866-1944)……フランスの作家で劇作家。第1次世界大戦では平和主義者。1916年にノーベル文学賞を受賞。晩年には、スターリニストの文学大会や宣言に名前を貸した。

(3)ヴァンデルヴェルデ、エミール(1866-1938)……ベルギー労働党と第2インターナショナルの指導者。1894年、下院議員。1900年に第2インターナショナルの議長。第1次大戦中は社会排外主義者。戦時内閣に入閣した最初の社会主義者の一人であり、国務相、食糧相、陸相などを歴任。ベルサイユ条約の署名者のひとり。1925〜27年に外相としてロカルノ条約締結に尽力。

(4)反帝国主義同盟……ドイツのウィリー・ミェンツェンベルグ(1989-1940)に指揮されたコミンテルンの統一戦線組織。彼は、人民戦線政策をめぐってコミンテルンと袂を分かつ1937年までは、忠実なスターリニストとしてさまざまなプロパガンダ計画に従事してきた。同盟は、1927年2月のブリュッセルと1929年7月のフランクフルトで、2つの国際大会を開催した。当初、中心的な役割は、英露委員会に関与していたイギリスの労働官僚と中国ブルジョア民族主義者の国民党の代表に与えられた。

(5)ピャトニツキー、ヨシフ(1882-1938)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。若くして社会民主党に加盟し、1902年に逮捕。キエフの監獄から脱走し、ドイツに亡命。1905年革命においては地下の革命出版に従事。1912年にボリシェヴィキ中央委員会の輸送部局の責任者(外国からロシアに革命文献を密輸)。1914年に再逮捕されシベリアに流刑。1917年にモスクワ帰還。モスクワ党組織の指導部の一人として10月革命に参加。1919-20年、鉄道労働組合の指導者。1922-31年、コミンテルンの書記。実務上の仕事を遂行する典型的なスターリニスト官僚として活躍。大粛清期に見世物裁判の犠牲者に。

(6)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907-12年、フランスに亡命。1912-13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィ7に。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。


  

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