コミンテルンの転換とドイツの情勢

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、ドイツにおけるファシズムの台頭とコミンテルンの「社会ファシズム論」の犯罪性に対してトロツキーが発した最初の警告論文である。

 コミンテルンは、1928年以降の極左路線(「第三期」論と社会ファシズム論)のもと、世界各地で運動を破壊し、共産党を大衆から孤立させてきた。そうした極左路線が最も破滅的な結果をもたらしたのが、ドイツであった。第1次世界大戦の敗北とその後の巨額の賠償、それが原因で生じた経済の急激な下降と疲弊、人心の荒廃、さらには1929年恐慌による経済破産、大量失業のもとで、ドイツは最も政治的経済的に不安定な国の一つとなった。没落した小ブルジョアジーとルンペン・プロレタリアートの一部は、その救いをしだいに国家社会主義(ナチズム)に向け始めた。

 ナチス党(国家社会主義党)は、1930年9月の総選挙で、前回比700%増となる大躍進を遂げ、一気に第2党に踊り出た。一方、社会民主党は前回比1割減、共産党は4割増であった。

 

ドイツの主要政党

1930年9月の選挙

1928年5月の選挙

 

得票数

得票率

議席

得票数

得票率

議席

社会民主党

857万7700

24.5%

143

915万3000

29.8%

153

共産党

459万2100

13.1%

77

326万4800

10.6%

54

カトリック中央党

412万7900

11.8%

68

371万2200

12.1%

62

民主党

132万2400

3.8%

19

150万5700

4.9%

25

人民党

157万8200

4.5%

30

267万9700

8.7%

35

国家人民党

245万8300

7.0%

41

438万1600

14.2%

73

国家社会主義党

640万9600

18.3%

107

81万100

2.6%

12

 

 この選挙結果は、十分に重大な政治的警告となるものであった。しかし、この選挙でかなりの前進を遂げたドイツ共産党のテールマン指導部は、この危険を重大視せず、ナチスはすでにその絶頂を過ぎ後は衰退していくのみだという勝利主義的主張を繰り返し、コミンテルンの指導のもと、「社会ファシズム論」に固執して、ドイツ社会民主党との反ファシズム統一戦線を拒否しつづけた。

 他方、ナチスの大躍進と共産党の前進に恐怖をおぼえた社会民主党は、ブルジョア諸政党とヒンデンブルク大統領への依存を強め、「より小さな悪」論のもと、共産党との協力よりもブルジョア政党との協力を優先させた。ブリューニング政府の緊急令に対する闘争を回避し、事実上、それを是認し、ブリューニングのボナパルティスト的統治を支えた。ブリューニング政府はきわめて不人気だったので、社会民主党のこのような態度は、社会民主党の基盤を掘り崩し、ファシズムを利しただけであった。

 こうして、ドイツにおける労働者の2大政党は、ファシズムという真の脅威に対する統一戦線を回避しつづけ、このわずか3年後には、ナチスは権力を獲得し、ヨーロッパ最強の共産党と社会民主党であったドイツ共産党とドイツ社会民主党は、一戦も交えずに、崩壊を遂げることになるのである。

 トロツキーは、この論文において、「ファシズムはドイツにおいて真の脅威となっている」と警告し、現在は「防衛を基調にすべき」として、「ドイツ労働者階級の多数派に接近して、社会民主党労働者および無党派労働者とともに、ファシズムの危険に対抗する統一戦線を結成する」ことを訴えた。トロツキーはその後、次々と論文や小冊子を執筆して、コミンテルンの社会ファシズム論を批判し、社会民主党との反ファシズム統一戦線を力のかぎり訴えた。

 この論文はすでに、現代思潮社の『社会ファシズム論』で訳出されているが、フランス語からの重訳であり、重大な誤訳が多数見られる。そこで、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文をもとに新たに訳しなおした。

Л.Троцкий, Поворот Коминтерна и положение в Германии, Бюллетень Оппозиции, No.17-18, Ноябрь−Декабрь 1930.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


   1、最新の転換の根源

 戦術的転換は、たとえそれが大きなものになるとしても、今日ではまったく不可避である。それを引き起こしたのは、客観的情勢の大きな転換である(安定した国際関係の欠如、景気の急激で不規則な変動、政治への経済的動揺の先鋭な反映、閉塞感に突き動かされた大衆の衝動性、等々)。客観的情勢の変化を注意深く追ってゆくことは、資本主義の「有機的」発展の時代であった大戦前よりも、今日はるかに重要であると同時に、比較にならないほど困難な課題となっている。現在、党指導部は、急角度に曲がりくねった山道で自動車を走らせているドライバーと同じ立場にある。タイミングを誤ってハンドルを切ったり、不適切な速度を出したりすれば、旅行者や同乗者をはなはだ大きな危険にさらしかねないし、下手すれば死さえもたらしかねない。

 コミンテルン指導部は、この数年間、非常に大きな転換の例を示してきた。その最新の例は数ヶ月前に見られた。レーニン死後のコミンテルンの転換は、何によって引き起こされているのか? 客観的情勢の変化によってだろうか? いやそうではない。確信をもってこう言うことができる。1923年以来、コミンテルンが、客観的条件の変化を正確に判断した上で戦術的転換を時機を失せず行なったことは、一度としてなかった、と。反対に、どの転換も、コミンテルンの路線と客観的情勢との矛盾が耐えがたいところまで先鋭化した結果なのである。そして今度もまた、同じことが起こりつつある。

 コミンテルン執行委員会第9回総会、第6回世界大会、とくに第10回総会は、急角度で一気に革命的高揚(「第三期」)へと向かう路線をとった。しかしこのような路線は、イギリスや中国における大敗北、全世界の共産党の弱体化(とくに、最も重要な資本主義諸国を席巻した商工業好況のもとでの党の弱体化)を経た後での、当時の客観的情勢下においては、まったく不可能なものだった。1928年2月に始まるコミンテルンの戦術的転換はしたがって、歴史の道程の真の転換にまったく逆行するものだった。この矛盾から生じたのが、冒険主義的傾向、大衆からのさらなる遊離、組織の弱体化などであった。これらの現象がはっきりと危険な様相を帯びるようになってはじめて、コミンテルン指導部は、1930年2月に、「第三期」の戦術から後退した右への新しい転換を行なったのである。

 あらゆる追随主義にとって無慈悲な運命の皮肉のせいで、コミンテルンの行なった新しい戦術的転換は、客観的情勢の新たな転換と一致した。世界恐慌の前代未聞の先鋭さは、疑いもなく、大衆の急進化と社会的激動の展望を切り開くだろう。まさにこのような状況のもとでは、左への転換、すなわち革命的高揚の路線に向け大胆なテンポをとることができただろうし、そうしなければならなかったろう。この3年間、コミンテルン指導部が、革命的引き潮にあたる経済的活況の時期を、大衆組織の中で、何よりも労働組合の中で党の立場を強化することにしかるべく利用していたならば、それは完全に正しかったし、必要でもあった。こうした状況においては、ドライバーは1930年には、自動車のスビードをセカンドからサードへ切り換えることができたろうし、そうしなければならなかったであろう。少なくとも、近いうちにそのような切り換えを行なう準備をしなければならなかったろう。だが実際に起こったことは、これとまったく正反対の経過だった。ドライバーは、まずいときにサードに切り換えていたため、正しい戦略的路線をとっていれば当然速度を上げなくてはならないときに、崖に転落しそうになって、セカンドに切り換え、テンポを遅くしなければならなかったのである。

 このような、戦術的必要と戦略的展望とのあいだにある法外な矛盾こそが、現在、指導部の犯した誤りの論理的帰結として各国の共産党が直面しているものである。

 この矛盾は、最も明瞭かつ最も危険なかたちで、現在のドイツに現われている。ドイツで最近行なわれた選挙は、まったく独特の力関係を露わにしたが、この力関係は、戦後ドイツの2度にわたる安定期の結果として形成されただけでなく、コミンテルンの3度にわたる誤りの結果としても形成されたものである。

 

   2、革命的課題に照らした共産党の議会での勝利

 現在、コミンテルンの公式メディアは、ドイツにおける選挙の結果を、「ソヴィエト・ドイツ」のスローガンが日程にのぼりうるような、共産主義の壮大な勝利であるかのように描き出している。官僚的楽観主義者は、選挙の統計に現われている力関係の意味を深く考えようとはしない。彼らは、状況から生じる革命的課題やそれによって引き起こされる障害などを無視して、共産党票の数字上の増加だけを分析している。

 今回の選挙(1)で共産党は、1928年の330万票に対して、約460万票を獲得した。増えたのは130万票である。これは、有権者数全体の増大を考慮に入れてもなお、「通常の」議会的メカニズムの観点からすれば、巨大なものであると言える。しかし、共産党票の増大も、80万票から一気に640万票に増大したファシズムの飛躍の前には、まったく色あせたものになる。また、この選挙の評価にとって同じぐらい大きな重要性を持っているのは、社会民主党が、かなりの票を減らしながらも、その主要な幹部の再選を勝ち取り、共産党よりかなり多くの労働者票を集めたという事実である。

 他方、どのような国際的・国内的条件の組み合わせが、最も力強く労働者階級を共産主義の側に向かわせるさせるものであるかと自問するならば、今日のドイツの情勢ほど、そのような転換にとって有利な事例はないと言うことができるだろう。ヤング案(2)の首吊り縄、経済恐慌、支配者の堕落、議会主義の危機、権力の座にあって自らの醜悪な正体をさらけ出している社会民主主義。このような具体的な歴史的状況から見るなら、ドイツ共産党が国内の社会生活の中で占めている比重は、130万票の得票増にもかかわらず、依然として不釣合いに小さい。

 今日における共産党の社会的比重を、現在の歴史的状況が党の前に提起している具体的かつ切迫した課題と比べるならば、コミンテルンの政策や体制と不可分に結びついている共産党の立場の弱さは、なおはっきりとしたものになる。

 たしかに、共産党自身も、このような得票増を期待していなかった。しかし、このことは、誤りと敗北から受けた打撃のせいで、共産党の指導部がすっかり、大きな目標や大きな展望から遠ざかってしまったことを示している。昨日まで党指導部が自分自身の可能性を過小評価していたとすれば、今日では、再び困難を過小評価している。こうして、ある危険が別の危険によっていっそう助長されている。

 ところが、真の革命政党の第一の特質は、現実を直視する能力にあるのである。

 

   3、大ブルジョアジーの動揺

 歴史の道程に転換が生じるたびごとに、社会的危機が起こるたびに、現代社会における3つの階級――金融資本によって指導されている大ブルジョアジー、2つの基本陣営のあいだで動揺している小ブルジョアジー、そして最後にプロレタリアート――の相互関係の問題を改めて検討しなおさなくてはならない。

 国民の取るに足りない小部分でしかない大ブルジョアジーは、都市と農村の小ブルジョァジーに、すなわち旧中間階層の残存物と膨大な新中間階層に支持されないかぎり、権力の座にとどまることはできない。この支えは、現在の時代においては、社会民主主義とファシズムという、政治的には相対立しながら、歴史的には相互に補い合っている、2つの主要な形態をとっている。金融資本に追随している小ブルジョアジーは、社会民主主義を通じて、何百万という労働者を自らに従えている。

 現在、ドイツの大ブルジョアジーは動揺し、分裂をきたしている。この意見の対立はつまるところ次の問題に帰着する。すなわち、現時点で、社会民主主義とファシズムという2つの方法のいずれを、社会的危機の治療に用いるべきかという問題である。社会民主主義という内科治療は、その結果の不確実性とあまりに大きな間接費(税、社会立法、賃金)のせいで、大ブルジョアジーの一部を反発させている。ファシズムという外科手術は、他の一部にとっては、状況に合わずあまりに危険であるように思われている。言いかえれば、金融ブルジョアジーは全体として、情勢評価の点で揺れ動いており、自分たちにとっての「第三期」の到来を宣言する十分な根拠を見出していない。その「第三期」においては、社会民主主義は完全にファシズムに取って代わられ、しかもその総決算の際、周知のように、社会民主主義は、その奉仕の代償として総抹殺されてしまうであろう。大ブルジョアジーが社会民主主義とファシズムとのあいだを動揺していること、そしてその主要政党が弱体化していることは、前革命的情勢のいちじるしく明白な徴候である。真に革命的な情勢が到来すれば、もちろん、これらの動揺はただちにおさまるだろう。

 

   4、小ブルジョアジーとファシズム

 社会的危機がプロレタリア革命をもたらすためには、他の諸条件とともに、小ブルジョア階級の中でプロレタリアートを支持する方向への決定的な変化が生じなければならない。それによって、プロレタリアートは、国民の指導者として国民の先頭に立つことができる。

 最近の選挙が暴露したのは――そして、そのことのうちに、選挙の主要な徴候的意義があるのだが――、まったく正反対の変化である。恐慌の打撃のもとで、小ブルジョアジーは、プロレタリア革命の方向ではなく、最も極端な帝国主義的反動へとよろめいており、しかもプロレタリアートのかなりの層をもそちらに引きずっていっている。

 国家社会主義(ナチズム)の巨大な成長は、次の2つの事実を表わしている。すなわち、深刻な社会的危機が小ブルジョア大衆の精神的均衡を破壊していることと、今日人民大衆の目から見て革命的指導者として承認されうるような革命政党が存在していないこと、である。共産党が革命的希望の党であるとすれば、大衆運動としてのファシズムは、反革命的絶望の党である。革命的希望がプロレタリア大衆の全体をとらえているときには、プロレタリアートは不可避的に、小ブルジョアジーのかなりの階層をも従えていき、その数はますます増える。まさにこの領域において、選挙は、正反対の構図を表わしている。反革命的絶望はきわめて強力に小ブルジョア大衆をとらえ、それがためにプロレタリアートのかなりの層もそちらに引きずられているのである。

 これは何によって説明されるのか? 過去、ファシズムが急速に強化される事態――勝利にまで至るか、あるいは少なくとも脅威にまでなった――が2度ばかり見られたが(イタリアとドイツ)、それらは、革命的危機の終わりにおいて、革命情勢の枯渇ないしその取り逃がしの結果として起こった。その時期、プロレタリア前衛は、国民の先頭に立って小ブルジョアジーを含むすべての階級の運命を変える上での無能力を暴露した。まさにこのことが、イタリア・ファシズムに特別な力を与えた。しかし、現在ドイツで問題になっているのは、革命的危機の終わりではなく、その接近でしかない。このことから、義務として楽観主義者である指導的党官僚は、ファシズムは、やって来るのが「遅すぎた」から、不可避的かつ急速な敗北を運命づけられている、と結論づけている(『ローテ・ファーネ』)。この連中は何も学ぶつもりがない。ファシズムの到来は、古い革命的危機に対しては「遅すぎ」たが、新しい革命的危機に対しては、十分早く――まだ夜明けのうちに――やって来ている。ファシズムが、革命期の終わりでなく、その前夜に、きわめて強力な橋頭堡を確保しえたという事実は、ファシズムの弱点ではなく、共産主義の弱点である。小ブルジョアジーは、自らの運命を改善する共産党の能力に期待していないし、したがってそのことで改めて絶望することもない。小ブルジョアジーは過去の経験を彼らなりにふまえており、1923年の教訓、マスロフ(3)とテールマン(4)の極左路線の軽薄な飛び跳ね、同じテールマンの日和見主義的無能力、「第三期」の大言壮語を覚えている。さらに――そしてこの点が最も重要なのだが――、プロレタリア革命に対する小ブルジョアジーの不信は、数百万の社会民主党労働者が共産党に対して抱いている不満によって助長されている。小ブルジョアジーは、たとえ事件の衝撃によって保守的軌道からたたき出されても、プロレタリアートの多数派の共感が社会革命に向けられていないかぎり、社会革命の側に向かうことはできない。まさにこの最も重要な条件が、ドイツにはまだ欠如している。そしてそれは偶然ではない。

 選挙前に発表されたドイツ共産党の綱領的宣言は、全面的かつ排他的に、主要な敵としてのファシズムに向けられていた。それにもかかわらず、ファシズムは、半プロレタリアートの数百万票だけでなく、工業労働者の数十万票をも獲得して、選挙で勝利をおさめた。このことに示されているのは、共産党の議会的勝利にもかかわらず、全体としてのプロレタリア革命が、この選挙において深刻な敗北をこうむったという事実である。もちろん、この敗北は前兆的なもの、予示的なものであって、決定的性格のものではない。しかし、共産党が、その部分的な議会的勝利を、全体としての革命が喫した敗北の「前兆的」性格と結びつけて評価しそこから必要な結論のいっさいを引き出さないならば、この敗北は決定的なものになるだろうし、不可避的にそうなるだろう。

 ファシズムはドイツにおいて真の脅威となっている。それは、ブルジョア体制の行きづまりの鋭さ、この体制に対する社会民主主義の保守的役割、この体制を打倒するうえでの共産党の蓄積された脆弱さを表現している。これを否定する者は、目が見えないか、口先だけの人間である。

 1923年に、ブランドラー(5)は、われわれのあらゆる警告にもかかわらず、ファシズムの力を過大評価していた。力関係の誤った評価から、侍機的、回避的、防衛的で、臆病な政策が生まれた。それは革命を滅ぼした。このような事件は、国民のすべての階級の意識に痕跡をとどめずにはおかない。共産党指導部によるファシズムの過大評価は、その後におけるファシズムの強化をもたらす条件の一つとなった。一方、現在の共産党指導部が犯している正反対の誤り、すなわちファシズムの過小評価は、長期にわたる、なおいっそう重大な破局をひき起こしかねない。

 この危険は、発展のテンポの問題と結びついて、とくに先鋭なものとなる。何といっても、発展のテンポはわれわれにのみ依存しているわけではないからだ。選挙結果に示された、政治曲線の錯綜した性格は、国家危機の発展テンポが非常に急速なものになることを物語っている。言いかえれば、事態の進行は、ごく近い将来、ドイツにおいて、一方における革命情勢の成熟と、他方における革命政党の弱体さと戦略的無能力という、旧来の悲劇的矛盾を、新しい歴史的高みで再現するかもしれない。このことは、明瞭かつ公然と、そして何よりも、手遅れにならないうちに、言わなければならない。

 

   5、共産党と労働者階級

 たとえば、次のことを思い出して自分を慰めることは、とんでもない誤りである。すなわち、1917年4月にボリシェヴィキ党が、レーニン到着後でも、まだやっと権力獲得の準備を始めたばかりで、8万たらずしか党員がおらず、ペトログラードでさえ、3分の1弱の労働者と、それよりはるかに少ない兵士しか従えていなかった、という事実である。当時のロシアの状況はドイツとはまったく違っている。戦前からすでに政治活動は弾圧され、さらに戦中の3年間にわたって中断された挙句に、革命政党は3月になってようやく地下から抜け出したばかりであった。労働者階級は、戦争中に、40パーセント近くも入れ替わり、プロレタリアートの圧倒的多数は、ボリシェヴィキを知らなかったし、それについて聞いたことさえなかった。3月から6月にかけて彼らの票がメンシェヴィキとエスエルに投ぜられたのは、目覚めの後のおぼつかない最初の一歩の現われでしかなかった。この投票のうちには、ボリシェヴィキに対する幻滅や積み重ねられた不信などは、影もかたちもなかった。こういう幻滅や不信は、大衆が党の誤りを経験的に検証した結果としてのみ生まれる。これとは反対に、1917年における革命的経験の一日一日は、大衆を協調主義者から引き離してボリシェヴィキの方へ押しやった。ここから、ボリシェヴィキ党の隊列とその影響力が嵐のような怒涛の発展を遂げるという事態が生じたのである。

 この点で、他の多くの点と同様、ドイツの情勢は根本的に違った性格を有している。ドイツ共産党は、昨日や一昨日に表舞台に登場したわけではない。1923年には、公然と、あるいは、半ば仮面をかぶった形で、労働者階級の多数派が共産党を支持していた。退潮期であった1924年には、共産党は360万票を獲得したが、これは、労働者階級全体の率からいうと、今日よりも大きな数字となる。このことが意味しているのは次のことである。社会民主党にとどまった労働者や今度の選挙で国家社会主義者に投票した労働者がそういう行動をとったのは、単なる無知のせいや、目覚めてからまだ日が浅いからでもなければ、共産党がどういう党なのかまだ知らなかったからでもなく、この数年間における自分自身の経験にもとづいて共産党に不信を抱いているからだ、ということである。

 1928年2月、第9回コミンテルン執行委員会総会が、「社会ファシスト」に対するより強力な激しく仮借のない闘争を指令したことを、忘れないでおこう。この時期のほとんど、ドイツ社会民主党は権力の座にいて、一歩ごとに、大衆にその犯罪的で恥ずべき役割を暴露していた。そして、その挙句に巨大な経済恐慌が起こった。社会民主主義を弱めるうえで、これよりも好都合な条件を想像することは困難だ。それにもかかわらず、社会民主主義は基本的に、自らの陣地を維持した。いったい何によって、この驚くべき事実を説明できるだろうか? それはただ、共産党の指導部がその全政策によって社会民主主義を助け、左からそれを支えたからである。

 500〜600万の男女労働者が社会民主党に投票したことは、彼らが、社会民主党に全幅で無際限の信頼を表明したことを意味するものではまったくない。社会民主党労働者を盲人とみなしてはならない。彼らは、その指導者に対してすでにそんなに無邪気ではない。ただ、現在の情勢の中で、別の出口を見つけ出すことができないだけなのだ。もちろん、われわれがここで言っているのは、労働貴族や労働官僚のことではなく、末端の労働者のことである。共産党の政策が彼らの信頼を獲得していないのは、共産党が革命政党であるからではなく、彼らが、革命的勝利を獲得する共産党の能力を信じておらず、無駄に生命を危険にさらしたくないと考えているからなのである。これらの労働者は、しぶしぶ社会民主党に投票しているが、それによって、社会民主党に対する信頼を表明しているのではなく、共産党に対する不信を表わしているのだ。そこに、今日におけるドイツ共産党の状況と1917年におけるボリシェヴィキの状況との巨大な相違がある。

 しかし、それだけではまだ、困難は解決されない。共産党自身の内部、そしてとりわけ、共産党を支持したり、あるいは共産党に投票するだけの労働者のあいだには、党指導部に対する押し殺した不信がたっぷりある。そこから、党の一般的な影響力と党の構成員の数とのあいだで、とりわけ労働組合における党の役割とのあいだで、「不均衝」と呼ばれるものが生じる。ドイツには、疑いもなくこのような不均衡が存在している。この不均衡の公式説明は、党が、組織的にその影響力を「強化する」ことができないためだ、というものである。ここでは、大衆は、純粋に受動的な物質とみなされており、大衆が党に入るか否かはもっぱら、党の書記が各労働者の首根っこをつかんでくることができるかどうかにかかっている、とみなされている。官僚は、労働者に独自の考え、独自の経験、独自の意志、党に対する積極的ないし消極的な政策があることを理解していない。労働者が党に投票するのは、党の旗のため、10月革命のため、自分たちの将来の革命のためである。しかし、共産党に入るのを拒否したり、あるいは組合闘争において党に従うのを拒否したりすることによって、労働者は、自分たちが党の日常政策に信を置いていないことを語っているのである。したがって、究極的には、「不均衡」は、大衆がコミンテルンの現在の指導部に対して抱いている不信の現われなのである。1923〜1930年の時期における誤り、敗北、ごまかし、直接の欺瞞などによって醸成され強化されたこの不信は、プロレタリア革命の勝利に向かう途上における最大の障害の一つとなっている。

 内的な自信なしには党は、階級を掌握することはできない。プロレタリアートを掌握することなしには、小ブルジョア大衆をファシズムから引き離すこともできない。一方は他方と不可分に結びついている。

 

   6、「第二」期への後退か、再び「第三」期へ向かうのか?

 中間主義の公式語法を用いるなら、問題は次のように定式化されることになるだろう。コミンテルン指導部は、ブルジョアジーの安定と革命の退潮および衰退という「第二期」の明瞭な特徴を備えていた時期(1928年)に、直接的な革命的飛躍という「第三期」の戦術を各国支部に押しつけた。その結果1930年に生じた転換は、「第三期」的戦術を放棄して「第二期」的戦術に道を譲ることを意味した。ところが、少なくともドイツにおいて、「第三期」が本当に近づいていることをはっきりと物語る最も重要な徴候が現われはじめているときに、この転換は官僚機構を通じて流布しつつある。以上のことから、新たな戦術的転換が、すなわち、たった今放棄されたばかりの「第三期」の戦術への転換が必要になるのではないだろうか? 

 われわれがこのような記号的言語を使うのは、中間主義官僚の方法論や用語法によってすっかり意識を汚されてしまった人々にとって問題設定をより近づきやすいものにするためである。しかし、スターリン的官僚主義とブハーリン的形而上学との組み合わせが背後に隠れているような用語を採用する必要はいささかもない。「第三」期が最終段階であるとする黙示録的認識をわれわれは拒否する。プロレタリアートの勝利までの段階の数は、力関係と情勢変化の問題であって、これらすべては、行動を通じてのみ検証される。だがわれわれは、番号つきの段階をもった戦略的図式主義そのものを拒絶する。「第三期」あるいは「第二期」のためにあらかじめ定められた抽象的戦術など存在しない。言うまでもなく、勝利と権力獲得に達することができるのは、武奘蜂起によってのみである。しかし、いかにして、蜂起にまで至るのか? いかなる方法によって、いかなるテンポで、大衆を動員するのか、これは、客観的情勢一般に依存しているだけでなく、何よりも、国内で社会的危機が勃発したときのプロレタリアートの状態、党と階級との関係、プロレタリアートと小ブルジョアジーとの関係などに依存している。「第三期」に入ったプロレタリアートの状態はまた、それはそれで、党がそれに先立つ時期にどのような戦術を適用していたかに依存している。

 ドイツにおける現在の情勢転換に適合した正常かつ自然な戦術的変化は、テンポの加速スローガンと闘争方法の先鋭化であるべきであった。しかし、この戦術的転換が正常で、自然であるのは、それ以前の時期における闘争のテンポとスローガンが、この時期の条件に合致していた場合のみである。だが、実際にはまったくそういうものではなかった。何といっても今回の戦術転換は、極左的政策と情勢の安定化のあいだにある激しい矛盾を原因としていた。その結果、全体としての政治的力関係が共産党に不利な方向で再編されたのと並んで、客観的情勢の新しい転換が共産党に大きな投票増をもたらした。ところが、そのとき党は、かつてなかったほど、戦略的にも戦術的にも方向を見失い、混乱してしまっていたのである。

 ドイツ共産党が、コミンテルンの大部分の支部と同じく――だがそれらの支部よりもいっそう深く――いかにひどい矛盾に陥っているかを明らかにするために、最も単純な比喩を用いよう。ハードルを飛び越すためには、前もって助走が必要である。ハードルが高ければ高いほど、必要な力をためて障害物の近くまで走っていくためには、遅すぎも早すぎもせずちょうどよいときに助走を始めることがますます重要となる。ところが、ドイツ共産党は、1928年2月以来、とりわけ1929年7月以来、助走ばかり繰り返している。党が息を切らし、足をひきずりだしたのも、無理はない。ついに、コミンテルンは「歩みをゆるめろ!」と命令した。しかし、息を切らせた党が、通常の歩みに戻ろうとし始めたとたん、革命的跳躍を必要とする本物の――想像の産物ではない――ハードルが党の前にはっきり姿を現わしたのである。助走のための距離は十分あるのか? 転換を拒否し、それを逆方向の転換に置き換えるのかどうか? これが、ドイツ共産党の前にそのあらゆる先鋭さをもって立ちはだかっている戦術的・戦略的問題なのである。

 党の指導的カードルが、これらの問題に対する正しい解答を見つけうるためには、最近数年間におけるすべての戦略および――今回の選挙に現われた――その帰結をふまえて、当面する道すじを判断することができなければならない。これとは逆に、官僚が、政治的自己批判の声を勝利の叫びによって圧殺することに成功するならば、プロレタリアートは不可避的に、1923年の破局よりさらに恐ろしい破局へと導かれるだろう。

 

   7、今後の発展のいくつかのありうるパターン

 プロレタリアートの前に、権力の獲得という直接的な問題を提起するような革命情勢というのは、客観的要素と主体的要素から成り立っている。この2つは、相互に結びついていると同時に、かなりの程度、相互に制約しあっている。しかし、この相互制約性は、相対的なものなのである。一般的には、不均等発展の法則は十分、革命情勢の諸要因にまで及んでいる。これらの要因のいずれかの発展が不十分だと、革命情勢がそもそも爆発にまで至らずに消滅してしまうか、あるいは、爆発して、革命的階級の敗北によって終焉してしまう。この問題に関して、現在のドイツの情勢はいかなるものであろうか? 

 1、深刻な国家的危機(経済、国際情勢)が、疑いもなく存在している。ブルジョア議会体制の通常の道のりには、出口を見出すことはできない。

 2、支配階級とその統治システムの政治的危機もまた、疑いもなく存在している。それは、議会的危機ではなく、階級的支配の危機である。

 3、しかしながら、革命的階級は、内部的矛盾によって深刻に分裂している。改良主義的政党を掘りくずしての革命政党の強化はまだ始まったばかりで、危機の深刻さには遠く及ばないテンポでしか進められていない。

 4、小ブルジョアジーは危機の最初期にすでに、資本の現在の支配システムにとって脅威となる立場をとったが、それと同時に、プロレタリア革命に対して不倶戴天の敵意をも露わにした。

 言いかえるなら、プロレタリア革命の主要な客観的条件はすでに存在している。その政治的条件の一つ(支配階級の状態)は、すでに存在している。もう一つの政治的条件(プロレタリアートの状態)は、革命の方向へ変化しはじめたばかりで、過去の遺産のせいで、急速に変化することはできない。第三の政治的条件(小ブルジョアジーの状態)は、プロレタリア革命の方向へでなく、ブルジョア反革命の方へ向けられている。この最後の条件を有利に変化させることは、プロレタリアート自身の内部での根本的変化なしには、すなわち社会民主主義の政治的清算なしには不可能である。

 このように、深く矛盾した情勢がわれわれの前に存在している。それらの要因の一つは、プロレタリア革命を日程にのぼらせているが、他の要因は、政治的力関係の深刻な変化があらかじめ起こらないかぎり、革命が近い将来に勝利する可能性を排除している。

 理論的には、ドイツにおける現情勢の今後の発展について、いくつかのパターンを想定することができる。これらのパターンは、客観的原因(階級的の政策をも含む)のみならず、党自身の行動にも依存している。図式的に、発展の4つの可能なパターンを挙げてみよう。

 1、自らの「第三期」の戦略に恐れをなした共産党が、極端に用心深く危険を避けながら手探りで前進し、闘わずして革命情勢をとり逃してしまう場合。これは、1921〜1923年のブランドラーの政策を、形を変えて繰り返すことである。社会民主主義の圧力を反映しているこの方向へ向かって、党内外のブランドラー派と半ブランドラー派は圧力をかけるであろう。

 2、それとは逆に、党が選挙での成功に目がくらんで、権力獲得のための闘争に向けて新たに急激な左転換をするが、党が能動的な少数派であるために、破局的な敗北を喫する場合。ファシズム、絶叫家、耳を閉じている者、何も考えない者、何も知らない者、党機構のアジテーションに耳を弄した者、労働者階級の一部――とくに若い失業者――の絶望と焦燥は、この方向へ圧力をかけるであろう。

 3、指導部が、何も放棄しないで、上記2つの危険の中間をゆく道を経験的に発見しようとし、その際、一連の新しい誤りを犯し、ゆっくりとプロレタリアートと半プロレタリアート大衆の不信を克服しようとして、その間に、客観的情勢が革命の側にとって不利なように変化してしまい、新しい安定期に入ってしまう場合もありうる。この折衷的方向――全般的な追随主義と部分的な冒険主義との結合――は何よりも、モスクワのスターリン主義指導部によってドイツ共産党に押しつけられている。スターリン主義指導部は、明確な立場をとることを恐れて、結果しだいで左派ないし右派の「実行者」に責任を転嫁できるようアリバイをあらかじめ準備している。これは、官僚的上層部の「威信」のためにプロレタリアートの世界的な歴史的利害を犠牲にするという、おなじみの政策である。このような路線の理論的前提は9月16日付『プラウダ』にすでに現われている。

 4、最後に、革命にとって最も有利な――正確に言えば、唯一有利な――パターンとは、ドイツ党が、その最良の最も自覚的な分子の努力によって、現状のあらゆる矛盾を明確に理解することである。現在の情勢から出発してもまだ、大胆かつ柔軟な正しい政策をもってすれば、党は、プロレタリアートの多数派を統一し、半プロレタリアートと最も抑圧されている小ブルジョア大衆の戦線に転換を引き起こすことができるだろう。プロレタリア前衛は、勤労者と被抑圧者の国民的指導者として勝利を収めることができるだろう。党がこの道に向けてその政策を転換するのを助けること――これが、ボリシェヴィキ=レーニン主義者(左翼反対派)の課題である。

 近い将来に、これらのパターンのうちのいずれが最も実現可能性があるかを占うのは、無駄である。このような問題は、占いによってでなく、闘争によって解決される。

 そのために必要なのは、コミンテルンの中間主義的指導部に対する非和解的な思想闘争である。モスクワからはすでに、総路線の新たな勝利についての欺瞞に満ちた絶叫によって官僚の威信を維持する政策――昨日までの誤りを隠蔽し、明日の誤りを準備する――が発せられている。『プラウダ』は、党の成功を度外れに過大評価し、困難を度外れに過小評価し、ファシズムの成功さえもプロレタリア革命にとって肯定的な要因であるかのように描き出しているが、同時に、「党の成功に我を忘れてはならない」というささやかな留保をつけている。ここでもスターリニスト指導部の背信的な政策は自分に忠実である。情勢分析は、無批判的な極左主義の精神で行なわれている。これによって党は、わざと冒険主義の道に押しやられている。それと同時に、スターリンは、「我を忘れるなかれ」という儀式的な警句によって、自らのアリバイをあらかじめ準備しているのである。この近視眼的で不誠実な政策はまさに、ドイツの革命を滅ぼしかねない!

 

   8、出口はどこにあるか?

 以上われわれは、政治的・主体的領域に完全に属している困難と危険とを、緩和することも誇張することもなしに分析してきた。この困難と危険は主として、エピゴーネン的指導部の誤りと犯罪によって生じてきたものであり、われわれの目の前で形成されつつある新たな革命情勢を台無しにしかねないものである。官僚たちは、われわれの分析を前にして、目を開じるか、さもなければ悪罵のたくわえを新たにするだろう。しかし、問題になっているのは、無力な官僚ではなく、ドイツ・プロレタリアートの運命である。党や党機構の内部にさえ、事態を直視し思考する人々、先鋭な情勢に押されて普段に倍する緊張感をもって明日のことに思考をめぐらせる人々が、少なからずいる。われわれの分析と結論は、こういう人々に向けられている。

 あらゆる危険な情勢にはつねに不確実な要素がふんだんに内包されている。敵および味方の気分や見解や力関係は、危機の過程そのものの中で形成される。それらを、あらかじめ数学的に予測することはできない。闘争の過程において、闘争を通じて、それらを測り、この生きた物差しにもとづいて、自らの政策に必要な修正を加えなければならない。

 社会民主党労働者の保守的抵抗力を、あらかじめ知ることができるだろうか? いやできない。この数年間の事件に照らしてみるなら、この力は巨大なものに見える。しかし、真の核心は、社会民主主義の強化に何よりも貢献したのが共産党の誤った政策であったこと、そしてその誤った政策を最も一般化したものこそ、社会ファシズムというナンセンスな理論であったことである。社会民主党の真の抵抗力を測るには、違う物差し、すなわち、正しい共産主義的戦術が必要である。この条件があるならば――これは取るに足りない条件ではない――、社会民主党の内的な腐敗がどれだけ進行しているかを、比較的短期間のうちに暴露することができるだろう。

 以上述べたことは、別の形でではあるがファシズムにも妥当する。ファシズムは、他の諸条件に加えて、ジノヴィエフ=スターリンの戦略を酵母にして大きく成長した。ファシズムの攻撃力はどれほどのものであろうか? その安定性はどれほどのものであろうか? 義務として楽観主義者である人々がわれわれに請け合っているように、ファシズムはすでに頂点にまで達しているのだろうか? それと、まだ最初の段階にいるのだろうか? 以上のことについて機械的に予言をすることはできない。それを決定することができるのは行動を通じてのみである。階級敵の手中にある鋭利なカミソリであるファシズムに関して言うと、共産党が誤った政策をとるならば、非常に短期間のうちに、致命的な結果をもたらすだろう。他方、正しい政策をとった場合には、なるほどそれほど短期間ではないにせよ、ファシズムの足元を掘りくずすことができるだろう。

 体制が危機に陥っているときには、革命政党は、議会制度の枠内より、議会外の大衆闘争における方がはるかに強力である。しかしそれには、またしても一つの条件が必要である。すなわち、革命政党が、情勢を正しく判断し、大衆の生きた切実な諸要求を、権力獲得の課題と実践的に結びつけることである。今や、いっさいはここに帰着する。

 それゆえ、ドイツの現在の情勢のうちに困難と危険のみを見出すとしたら、それは重大な誤りを犯すことになろう。いや、現在の情勢は、明確かつ完全に理解され正しく利用されるならば、巨大な可能性を切り開くものなのである。

 そのためには、何が必要か? 

 1、情勢が「左へ」向かって転換しているときに「右へ」の転換が余儀なくされているが、それは、情勢のあらゆる要因が今後どのように変化していくかに対する注意深く良心的で理性的な観察を要求する。

 まずもってただちに、第二期の方法と第三期の方法との抽象的対置を拒否し、情勢をあるがままに、そのあらゆる矛盾とその生きた発展力学を把握しなければならない。この情勢の現実の変化用心深く足並みをそろえ、モロトフ(6)やクーシネン(7)の図式にしたがってではなく、情勢の現実の発展に沿って情勢に働きかけなければならない。

 状況の中で方向性を定めることは、最も重要で最も困難な課題の一つである。この課題は、およそ官僚主義的方法によって解決することはできない。統計は、それ自体としていかに重要であっても、この目的には十分ではない。日々、プロレタリア大衆および総じて勤労者の最深部との接触を保たなければならない。大衆の琴線に触れるような生き生きとしたスローガンを提起するだけでなく、そのスローガンが大衆の中でどのように屈折するのかを注視しなければならない。この課題を達成することができるのは、何万という触手をあらゆるところ伸ばし、それらが察知した情報を集め、すべての問題を討議し、自らの集団的意見を練り上げていく、そういう能動的な党を通じてのみである。

 2、このことは、党体制の問題と不可分に結びついている。党の信頼や不信とは無関係に、モスクワによって指名された連中には、大衆を資本主義社会への強襲に導くことはできない。党の現在の体制が人為的なものであればあるほど、決定的瞬間における危機はますます深刻なものとなるであろう。あらゆる「転換」の中でも、党内制度の転換は、最も必要で不可避のものである。これは、生死にかかわる問題である。

 3、党体制の変更は、路線転換の前提条件になるとともに、その帰結ともなるだろう。一方は、他方なしには考えられない。真の災厄に沈黙を守り、偽りの価値を称揚するような、偽善と因襲の雰囲気から、すなわちスターリニズムの破滅的雰囲気から、党は抜け出さなければならない。この雰囲気は、思想的・政治的影響によってつくり出されたものではなく、機構の粗野な物質的従属関係とそれにもとづいた指令の方法によってつくり出されたものである。

 官僚主義の束縛から党を解放するために必要な条件の一つは、1923年以来、いやもっと言えば1921年の3月事件以降におけるドイツ共産党指導部の「総路線」を総点検することである。左翼反対派は、一連の文書および理論的著作の中で、コミンテルンの公式の政策がたどってきたあらゆる不幸な段階に対する自らの評価を与えてきた。この批判は党の財産とならなければならない。それを避けたり、沈黙したりしようとしても無駄である。党は、自らの過去に照らして自らの現在を自由に評価することなしには、それが直面する偉大な課題の水準にまで達することはできないであろう。

 4、共産党は、例外的なまでに有利な条件があったにもかかわらず、「社会ファシズム」という定式によって、社会民主主義の建物を本格的に揺り動かすうえで無力であることがわかったが、今や真のファシズムが、擬似急進主義の言葉によってだけではなく、爆薬の化学によっても、この建物を脅かしている。社会民主主義がその全政策でもってファシズムの繁栄を準備した、という命題がいくら正しかったとしても、ファシズムが何よりも社会民主主義そのものにとっての致命的脅威であるということは、依然として真実である。社会民主主義は、国家の議会主義的・民主主義的・平和主義的な形態と方法に不可分に結びつけられているのだ。

 社会民主党の指導者と労働貴族の薄い層が、究極的にはプロレタリアートの革命的勝利よりも、ファシズムの勝利を選択すること、このことに関してはいかなる疑いもありえない。しかし、まさにこのような選択が迫っていることが、社会民主党指導部にとって、彼ら自身の労働者を前にして、はなはだしい困難を生み出すことになろう。あらゆる状況からして、反ファシズム労働者統一戦線の政策が導き出される。この政策は、共産党の前に巨大な可能性を開く。しかしながら、成功のための条件は、「社会ファシズム」の理論と実践を放棄することである。この理論の害悪は、現在の状況においては、直接的な脅威となっている。

 社会的危機は、不可避的に、社会民主党内部に深い亀裂をもたらす。大衆の急進化は、社会民主党労働者が社会民主主義者であることをやめるずっと早く、彼らに影響を及ぼすだろう。われわれが、社会民主党のさまざまな組織や分派と反ファシズムの協定を結ばざるをえなくなるのは避けがたい。その際、大衆の目前で、社会民主党の指導者に対して一定の明確な条件を提示しなければならない。このような協定に反対する形式的な義務をあらかじめ自らに課すことは、怯えた日和見主義者にのみなせるわざである。彼らはかつて、パーセル(8)とクック(9)、蒋介石(10)と汪精衛(11)の同盟者であった連中である。統一戦線に関する官僚たちの空虚な空文句を放棄して、レーニンによって定式化されボリシェヴィキによって常に(とくに1917年に)適用されてきた統一戦線の政策に立ち返らなければならない。

 5、失業問題は、政治的危機の最も重大な要素の一つである。資本主義的合理化に反対する闘争と1日7時間労働のための闘争は、依然として日程にのぼっている。しかし、ソヴィエト連邦との広範な計画的協力というスローガンだけが、この闘争を革命的課題の高みにまで引き上げることができる。選挙に向けた綱領的宣言の中で、ドイツ共産党中央委員会は、共産党が政権に就けばソ連との経済協力を確立するであろう、と述べている。それは当然のことだ。しかし、歴史的展望を、今日の政治的課題に対置することはできない。今日すぐに、ソヴィエト共和国との広範な経済協力というスローガンのもとに、労働者を、何よりもまず失業者を動員しなくてはならない。ソ連のゴスプランは、ドイツの共産主義者と専門家の参加にもとづいて、経済協力の計画を作成しなければならない。この計画は、失業が蔓延している現在の状況を前提として、経済のすべての基本分野にわたる全面的な協力を展望したものでなければならない。課題は、政権に就いた後で経済を再建することを約束することにあるのでもなければ、ソヴィエト・ドイツとソ連との協力を約束することにあるのでもなく、今すぐ、この協力を現在の恐慌と失業に密接に結びつけることによって労働者大衆を獲得し、それを、将来における両国の社会主義的再建の広大な計画に発展させてゆくことである。

 6、ドイツにおける政治的危機は、ヨーロッパのベルサイユ体制の問題を再検討せざるをえなくしている。ドイツ共産党中央委員会は、ドイツ・プロレタリアートが権力に就けば、ベルサイユ条約を破棄するであろう、と言っている。それだけか? ベルサイユ条約の廃棄が、プロレタリア革命の最高の成果だというのか! それの代わりに何をもってくるのか? それについては一言もない。このような消極的な問題設定は、党を国家社会主義者に接近させることになる。ヨーロッパ・ソヴィエト合衆国のスローガンのみが唯一正しいスローガンであり、それだけが、ドイツのみならずヨーロッパ全体を完全な経済的・文化的衰退の脅威にさらしているヨーロッパの細分化からの出口を指し示すものなのだ。

 ヨーロッパのプロレタリア的統一というスローガンは同時に、ファシズムの忌まわしい排外主義や反フランスの中傷などに対する闘争の非常に重要な武器にもなる。最も誤った、最も危険な政策とは、受動的に敵に順応して、敵の色に染まってしまう政策である。民族的絶望と民族的発作のスローガンに対して、国際的活路を指し示すスローガンを対置しなければならない。だがそのためには、国家社会主義の害毒――その主要な要素は一国社会主義の理論である――を自分自身の党から洗い流すことが必要である。

 以上述べてきたことを一つの単純な定式にまとめるために、次のように問題を立ててみよう。当面する時期におけるドイツ共産党の戦術は、防衛を基調とすべきなのか、攻勢を基調とすべきなのか? われわれは答える、防衛を基調にすべきだと。

 もし今日、共産党による攻勢の結果として衝突が起こったとすれば、労働者階級の大多数が驚きと当惑の中で中立を保ち、小ブルジョアジーの大多数がファシズムを直接に支持しているもとで、プロレタリア前衛が国家とファシズムとのブロックに頭をぶつけて、首をへし折る結果になってしまうだろう。

 防衛の立場に立つということは、ドイツ労働者階級の多数派に接近して、社会民主党労働者および無党派労働者とともに、ファシズムの危険に対抗する統一戦線を結成することを意味する。

 この危険を否定したり、過小評価したり、軽率な態度をとったりすることは、今日ドイツのプロレタリア革命に対してなしうる最大の犯罪である。

 共産党は、何を「防衛する」のか? ワイマール憲法か? いや、この課題はブランドラーに残しておこう。共産党は、ドイツの国家内部で労働者階級が獲得した物質的・精神的陣地を防衛しなければならない。最も直接的な形で問題になっているのは、労働者階級の政治組織、労働組合、新聞と印刷所、クラブや図書館等々の運命である。共産主義労働者は社会民主党労働者に次のように言わなければならない。「われわれの党の政策は非妥協的なものだ。しかし、もし、今夜ファシストが君の組織に殴り込みをかけてきたら、私は武器を手にして君を助けにいこう。君は、私の組織が危険にさらされているときに、助けにくると約束するか?」。現在の時期における政策の核心は以上のようなものである。すべてのアジテーションは、この基調にしたがって遂行されなければならない。

 われわれがこのアジテーションを――労働者をすぐにうんざりさせてしまう金切り声や自画自賛なしに――粘り強く真剣に思慮深くやればやるほど、そして、あらゆる工場や労働者地区で防衛のための実際的な組織的措置を提出すればするほど、ファシストの攻撃がわれわれの不意を打つ危険性はますます少なくなるだろうし、この攻撃が労働者の隊列を破壊するかわりに、より強固にしてゆく可能性はますます高まるだろう。

 ファシストは、その成功に我を忘れているため、また、その軍隊のメンバーが忍耐力のない無秩序な小ブルジョアジーであるため、近い将来、攻勢へと頭を突っ込む傾向がある。現在この方向で彼らと競い合うのは、望みがないばかりでなく、致命的に危険なことであろう。反対に、社会民主党労働者と勤労大衆一般の目に、ファシストが攻撃側であり、われわれが防衛側であるように映れば映るほど、われわれにとって、ファシストの攻勢を阻止するチャンスだけでなく、攻勢に転じて成功を収めるチャンスがそれだけ大きくなる。防衛は、用心深く、能動的で、大胆なものでなければならない。指令部は、すべての戦場を見回り、総攻撃の合図を出さなければならないときに、新しい情勢転換を見逃さないよう、あらゆる変化を考慮に入れなければならない。

 いついかなる条件のもとでも、防衛を支持する戦略家もいる。例えば、ブランドラー派がそうである。彼らもまた今日防衛について語っていることに驚くのは、まったく子供じみたことだ。彼らはいつもそうなのだ。ブランドラー派は、社会民主主義のメガホンの一つである。それに対してわれわれの課題は、防衛という基礎の上に立って、社会民主党労働者に接近し、やがては彼らを決定的攻勢にまで導くことである。ブランドラー派には、そういうことは絶対できない。力関係がプロレタリア革命にとって有利な方向に根本的に変化するときには、ブランドラー派は再び、無用の長物、革命のブレーキとなるであろう。まさにそれゆえ、社会民主主義的大衆との接近にもとづいた防衛の政策は、背後に大衆がいないし今後もいないであろうブランドラー派指令部との対立の緩和を意味するものではけっしてないのである。

※  ※  ※

 上で特徴づけたような勢力編成およびプロレタリア前衛の課題を踏まえるなら、スターリンニスト官僚がドイツその他の国でボリシェヴィキ=レーニン主義者に対して用いている肉体的制裁の方法は、特別な意味を帯びてくる。それは、社会民主党の警察とファシズムの突撃隊に対する直接の奉仕である。プロレタリア革命運動の伝統に根本から反しているこの手法は、小ブルジョア的役人の心理にこの上なく合致している。彼らは、上から保証された給料によって生きており、党内民主主義が出現するとその給料が失なわれはしないかと恐れている。このスターリン主義者の破廉恥行為に対しては、大規模な啓発的事業が必要であり、それはできるだけ具体的な形で進められ、党機構の最も卑しむべき官僚の役割を暴露するものでなければならない。ソ連および他の国での経験が物語っているように、左翼反対派に対して最も凶暴に闘うのは、自らの罪と犯罪――公金の着服、地位の濫用、あるいは単にその完全な無能さ――を上司の目から隠さなければならない紳士たちである。まったく明らかなことだが、ボリシェヴィキ=レーニン主義者に対するスターリニスト機構の蛮行を摘発する事業は、われわれが、前述した課題にもとづいた全般的なアジテーションを広範に展開すればするほど、ますますうまくいくであろう。

※  ※  ※

 われわれは、コミンテルンの戦術的転換の問題を、もっぱらドイツの情勢に照らして検討してきたが、これは、第1に、ドイツの危機が現在、ドイツ共産党を、再び世界プロレタリア前衛の関心の中心に置いているからであり、第2に、この危機に照らしてみると、すべての問題が最もはっきりと浮かび上ってくるからである。しかしながら、ここで述べたことが程度の差はあれ他の国にも関係していることを示すのは、困難ではない。

 フランスでは、大戦後の階級闘争のあらゆる形態は、ドイツにおけるよりはるかに鈍く不徹底な性格を帯びている。しかし、発展傾向は同一であり、フランスの運命が直接ドイツの運命に依存していることは、もはや言うまでもない。いずれにせよ、コミンテルンの転換は、普遍的な性格を有している。1928年にすでにモロトフによって、権力に就く第一候補と宣言されたフランス共産党は、この2年間というもの、完全に自滅的な政策をとってきた。フランス共産党はとりわけ、経済好況を見逃した。フランスで戦術的転換が唱えられたのは、産業の活況が恐慌にはっきりと転化しはじめた時であった。したがって、ドイツについてわれわれが語ったのと同じ矛盾、困難、課題が、フランスにおいてもまた日程にのぼっている。

 情勢の転換と結びついたコミンテルンの転換は、共産主義的反対派の前に、はなはだ重要な新しい課題を提起している。反対派の勢力は小さい。しかし、どの潮流も、その課題の成長とともに成長していく。この課題を明確に認識することは、勝利の最も重要な要件の一つを満たすことである。

 1930年9月26日

『反対派ブレティン』第17/18号所収

新規

 

  訳注

(1)今回の選挙……1930年9月14日に行なわれたドイツ国会選挙のことで、この選挙において、ナチス党は一気に700%もの得票増を勝ち取って、第2党に躍進した。

(2)ヤング案……オーエン・ヤング(1874-1962)はアメリカの法律家・実業家・行政官で、ヤング案はドーズ案を改定し、支払い条件を多少緩和したもの。1929年に成立。このヤング案に対して、ナチスの鉄兜団をはじめとする国家主義者の一大反対運動がドイツで起こり、ナチス躍進のきっかけとなった。

(3)マスロフ、アルカディ(1886-1944)……1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロフ、フィッシャー、ウルバーンス)の一人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して、1927年に除名。1928年にジノヴィエフとともに屈服。しかし、再入党はせずに、フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。

(4)テールマン、エルネスト(1886-1944)……1920年代半ば以降、ドイツ共産党の最高指導者。忠実なスターリニスト。1932年にヒンデンブルク、ヒトラーと対抗して大統領選挙に立候補し落選。1933年にナチスに逮捕され、1944年に強制収容所で銃殺。

(5)ブランドラー、ハインリヒ(1881-1967)……ドイツ共産党の創始者の一人。1921年3月事件から1923年の敗北まで党を指導。1924年に指導部からはずされる。共産党内に右翼反対派、ドイツ共産党反対派(KPO)を結成。1929年に除名。

(6)モロトフ、ヴャシェスラフ(1890-1986)……1906年来の古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後『プラウダ』編集部。スターリンとともに臨時政府の批判的支持を打ち出し、4月に帰国したレーニンによって厳しく批判される。1921〜30年党書記局員。スターリンの腹心となり、1930〜41年、人民委員会議議長。1941〜49年、外務人民委員。スターリン死後、フルシチョフ路線に反対し、失脚。

(7)クーシネン、オットー(1881-1964)……フィンランドの共産主義者で、1918年のフィンランド革命の敗北後、モスクワに亡命。その後、コミンテルン内でスターリンの代弁者となる。1922〜31年、コミンテルンの書記。

(8)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(9)クック、アーサー(1885-1931)……イギリスの労働組合官僚。英露委員会の主要メンバーで、1926年のゼネストを裏切る。

(10)蒋介石(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年、中山艦事件で指導権を握り、北伐開始。1927年4月12日、上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。

(11)汪精衛(1884-1944)……中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。


  

トロツキー・インターネット・アルヒーフ 日本語トップページ 1930年代前期
日本語文献の英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフの非英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフ