スターリンがまたしても自分に不利な証言

トロツキー/訳 服部・西島栄

【解説】これは、スターリニストによる歴史偽造を暴いた一連の論文の一つである。ここで論じられた内容は、基本的に『スターリンの偽造学派』にも反映されている。

 なお本稿は、英語版から服部氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文で入念にチェックして修正を施したものである。

Л.Троцкий, Сталин снова свидетельствует против Сталина, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 ボリシェヴィズムの原則の修正は、不可避的にボリシェヴィズムの歴史の修正に行き着いた。とくに、現在10月革命史と呼ばれているものは、まったく人為的で矛盾に満ちた概念構成物と化しており、それが追求しているのは、現在の政治的支配者の部分的・個人的課題であって、過去の事実の再構成でもその説明でもない。

 1922年に、現農業人民委員のヤコブレフに『10月革命の歴史』を編纂する任務が与えられた。中央委員会が、ヤコブレフの仕事を監修するように前もってトロツキーを指名したという事実は、レーニンの不在にもかかわらず中央委員会が、10月革命の歴史を反トロツキーの方向に向けるという考え方からいかに遠かったかを示している。この分野においても、転換が始まったのはようやく1924年になってからのことである。ヤコブレフは、実は、10月革命の歴史を何も書かなかった。しかし、彼は何冊かの歴史資料集をまとめて、自分の序文を付けて出版した。この資料集にはおおむね、次のような法則があると言うことができる。ヤコブレフの序文の正しさは、各資料集の発行までに経過した時間の2乗に反比例する、と。もっと簡単に言えば、時間が経つほど、ヤコブレフはより大胆に嘘をつく。1928年には、第2回ソヴィエト大会の議事録への序文の中で、ヤコブレフは次のように主張するほど大胆になっていた。

「……ボリシェヴィキは『立憲的幻想』に屈伏せず、第2回ソヴィエト大会に必ず(?)時機を合わせて蜂起を行なうという同志トロツキーの提案を退け、ソヴィエト大会の開会前に権力を握った」(『第2回全ロシア・ソヴィエト大会』、国立出版局、1928年、38頁)。

 この引用からすると、蜂起の期日と方法の問題では、レーニンの指導の下で、中央委員会はトロツキーの政策に対立する政策を実行したことになる。こうした虚偽の説明――それはヤコブレフの発明ではなく、彼の知的指導者、とりわけスターリンの発明である――は、トロツキーの『ロシア革命史』の最終巻の付録に収められている事実と資料によって完全に粉砕されている。しかし、『ロシア革命史』に列挙されている証拠の中には、ある一つの、そしておそらくは最も鮮やかな証拠が抜け落ちている。

 1920年4月23日、モスクワ組織はレーニンの50歳の誕生日を祝った。このお祝いの「主賓」は気が進まなかったので、はじめのうちは出席せず、最後になってからようやく姿を現わして、党は今後このような嘆かわしい祝典行事を控えるようになるだろうとの期待を表明した。この点についてはレーニンの希望的観測は誤っていた。後年、祝典は義務的性格をもつに至った。しかし、これはまた別の問題である。

 この祝賀行事の主報告者はカーメネフであった。彼のほかに、ゴーリキー、オリミンスキー、そしてスターリンも演説した。その後の事態の展開をまったく予想だにしていなかったスターリンは、非常にできの悪い短い演説の中で、「誰もこれまで語ったことのない(レーニンの)特質、すなわち謙虚さと自らの誤りを認める点、を明らかにする」という課題を自らに課した。演説者スターリンは2つの例を引いた。最初の例は国会のボイコット(1905年)に関するもので、2番目の例は10月蜂起の期日と方法に関するものであった。スターリンがレーニンの第2の「誤り」として挙げたことを、スターリンの言葉通りに引用してみよう。

 「1917年の7月、ケレンスキーのもとで民主主義会議が招集され、メンシェヴィキとエスエルが新しい機関――立憲政府に切り替えるのための予備議会――を設立しようとしていたとき、中央委員会のわれわれは、ソヴィエトの強化の道を進み、ソヴィエト大会を招集し、蜂起を開始し、ソビエト大会が国家権力の機関であると宣言することを決定した。当時身を潜めていたイリイチ[レーニン]は同意せず、このガラクタ(民主主義会)を解散させ逮捕する必要があると書いた。われわれは、ことはそんなに単純ではないことを理解しており、民主主義会議の半分か少なくとも3分の1の代議員が前線の代表であることを知っており、逮捕や解散はいっさいをだいなしにし、前線との関係を悪化させるだけであることを知っていた。われわれの進路上にあるあらゆる裂け目や割れ目や落とし穴は、われわれの方がよく見えていた。しかし、イリイチは偉大であり、途上の割れ目や落とし穴や裂け目を恐れない(?!)。彼は危険を恐れず、『断固として前進せよ』と言う。しかし、[ボリシェヴィキ派の]フラクションは、このときはそのように振る舞うことは得策ではなく、目的を達するにはこれらの障害を回避する必要があると考えた。イリイチの要求にもかかわらず、われわれはソヴィエトの強化の道を進み、10月25日を蜂起の日取り(?)として設定した(?)。イリイチは、笑いながら、いたずらっぽくわれわれを見て、『そうだ、君たちは正しかった』と言った。これにはわれわれは驚いた。ときとして同志レーニンは、非常に重要な問題において自分の欠点(?)を認めることがあった」(『V・I・ウリヤーノフ・レーニンの生誕50年』、1920年、27〜28頁)。

 このスターリンの演説は、彼の著作集のどの版にも出ていない。それにもかかわらず、これは極めて興味深い演説である。まず何よりも、これは、ヤコブレフによって最も「科学的に」定式化された最新の伝説、すなわちレーニン指導下の中央委員会は蜂起の期日と方法に関するトロツキーの立憲主義的幻想を打ち破ったという伝説を完膚なきまでに粉砕している。スターリンの口から(すなわち、1920年のスターリンの口から)、最新の伝説とは反対に、この問題に関しては中央委員会はレーニンと対立しトロツキーと一致していたことが明らかになったわけである。

 トロツキーは1924年の[レーニンについての]回想の中で、[10月]25日の夜にスモーリヌィに現われたレーニンが自分にどう言ったかを記述している。「よろしい、このやり方でも可能だ。権力が取れれればいいんだ」。歴史家ヤロスラフスキーは1930年に、憤慨しながらこの話の信憑性を否定した――結局、中央委員会はレーニンと一致して、トロツキーに反対しながら、権力の打倒を遂行したのであるから、どうしてレーニンが「このやり方でも可能だ」などと言うことがありえようか、というわけだ。しかし、われわれはスターリンから、中央委員会は「イリイチの要求にもかかわらず」ソヴィエト大会への道を進み、「10月25日を蜂起の日取り(?)として設定した(?)」ことを知ったのである。実際、レーニンは、スモーリヌィに到着したとき、「そうだ、君たちは正しかった」と言明したのだ。たとえトロツキーの話の正しさを認めるのは気が進まなくても、あらゆる後年の偽造に対するこれ以上説得的で決定的な反証がありうるだろうか。

 生誕式典でのスターリンの演説は、その他の点でも教訓的である。人々や状況の描写が何と徹底的に粗雑であることか。スターリンは中央委員会の計画さえ正しく記述していない。「ソヴィエトの強化の道を進み、ソヴィエト大会を招集し、蜂起を開始し、ソビエト大会が国家権力の機関であると宣言する」。これこそ、レーニンが立憲的幻想であると非難したのも無理もない非常に機械的な図式ではないか! 蜂起を宣言する目的だけのために前もってソヴィエト大会を召集することは、蜂起の前にソヴィエト大会を攻撃する機会を敵に与えることを意味する。ここでふと次のような疑問が浮かぶ――レーニンの懸念は、スターリンとの会見の結果生じたものではなかったか? 実際には、現実に遂行された計画は、国の最高機関としてのソヴィエト大会のスローガンのもとに大衆を動員し、この合法的キャンペーンを隠れ蓑にして蜂起を準備し、ソヴィエト大会に近い時に、ただし断じて大会後にではなく、適切な瞬間に攻撃に移ることにあった。

 スターリンは、10月の戦略の中心点について幼稚な誤りを犯している。なぜ誤ったかといえば、彼は蜂起の問題について、当時もその後も自分で考え抜いたことがないからである。それだけに、後にヤコブレフが、彼自身最後まで考え抜くことなく、スターリン的戦略思想をトロツキーに帰し、スターリンがレーニンと一致して「立憲的幻想」に対する闘争を遂行したと主張したとき、スターリンにとってヤコブレフに祝福を与えることはなおさら容易なことであった。この一つのエピソードからも、エピゴーネンたちの理論的レベルの恐るべき貧しさが浮かび上がる。

 偶然われわれの手に入った1920年の生誕記念演説集は、例外ではない。党およびソヴィエト機関のアルヒーフだけでなく1924年以前の公式出版物は、エピゴーネン派イデオロギーの上部構造がそびえ立つ、ダイナマイトの土台である。この土台のレンガの一つ一つが、爆発力を秘めている。大きな問題においても小さな問題においても、ボリシェヴィズムの伝統は完全に左翼反対派の側にある。

1932年秋

『反対派ブレティン』第32号

『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より


  

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