ジャン・ルーへの手紙

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、スペインにおける国際書記局代表のジャン・ルーに宛てたトロツキーの非常に重要な手紙である。

 この手紙の中で言及されているルーの電報というのは、POUMの指導者がトロツキーのためにバルセロナへのビザ取得と彼らの機関紙『ラ・バターリャ(闘争)』紙への定期的寄稿を提案していることを知らせたものである。この返事の中でトロツキーは、あれほど非難罵倒していたPOUMの指導者に対してきわめて和解的な態度をとり、「この偉大な闘争において、過去の時期の記憶にいつまでも引きずられているのは犯罪的なこと」であるとさえ述べている。しかも追伸で、この手紙をニンらに見せてよいと述べており、これは、この手紙がPOUM指導者との和解を求める非公式の打診であったことをはっきりと示している。この手紙の直後(8月18日)、やはりヴィクトル・セルジュ宛ての手紙で同じような和解的な手紙を書いており、POUMに対するトロツキーの態度が8月前後に大きく変化したことがうかがえる。その原因は、フランコの反乱に対するスペイン人民の熱狂的な反撃(POUMはその中心勢力の一つであった)がトロツキーに伝わったことにある。

 しかし、この手紙はルーの手には渡らず、スペインにいたイタリアの秘密警察の手に落ちた。しかも、その直後、トロツキーは、ソヴィエト政府の圧力に負けたノルウェー政府によって軟禁状態に置かれ、外部と連絡が取れなくなる、こうしてこの決定的な数ヶ月間、トロツキーはスペイン情勢に介入できなくなった。その間に、スペインの主流派ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、トロツキーのこの和解的態度を知らないまま、POUMの糾弾と暴露を熱心につづけ、POUMとの関係をますます悪化させた。そして、トロツキーの「序言」から切り離されたPOUMは、同年9月末にカタロニア政府に入閣してしまうことになる。こうして、トロツキーがメキシコに移って、再びスペイン問題を論じられるようになった時には、事態はすでに取り返しのつかないものになっていたのである。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 親愛なる同志(1)

 あなたからの電報は予期しないものでした。不幸なことに、それは、バルセロナ行きのビザが取得できるかどうかの問題が――私の知るかぎり――まだ決着していないこの時期に、私がスペインの事件に直接介入しようとしている証拠として解釈されかねないものです。もちろん、私としては、ビザが取得できれば非常にありがたいことです。それは可能でしょうか?

 私がこの地でこうむっている状況については、言うまでもないと思います。一方ではファシストによる襲撃(2)、他方ではタス通信の有名な声明(3)。私にはノルウェー政府がいかなる措置をとるつもりかわかりません。政府は、スターリン=ヤーゴダ(4)一派の犯罪的な蛮行について、これっぽちも理解していません。

 ナターリアと私はいつでもバルセロナに行く準備がととのっています。けれども、うまくことを運ぶためには、できるかぎりの慎重さでもって問題にアプローチしなければなりません。

 よくわかっていると思いますが、私はこの場所からあなたに何らかの助言を与えることはできません。スペインでは直接的な武装闘争が今や進行中であり、状況は日々変化しています。私に届く情報レベルはほとんどゼロです。人々はマウリン(5)が姿を消したことについて語っています。いったいどういうことでしょうか? 殺されてなければいいのですが。ニン(6)やアンドゥラデ(7)その他に関して言えば、この偉大な闘争において、過去の時期の記憶にいつまでも引きずられているのは犯罪的なことです。これまでいろいろないきさつがあったとはいえ、綱領および方法における意見の相違は、けっして誠実で永続的な和解を妨げるものではありません。今後の経験が残りの仕事をするでしょう。私個人に関して言えば、遠くからの単なる観察者としてとはいえ、この闘争において喜んで援助する用意があります。

 私の心を占めている最大の問題はPOUMとサンディカリストとの関係です。それは、もっぱら、ないし、主として教条的な考慮が優先しかねない危険性が大いにあるのではないかと思います。何としてでも、サンディカリストとの関係を――彼らのあらゆる偏見にもかかわらず――改善する必要があります。倒すべきは共通の敵です。闘争の中で、最良のサンディカリストたちの信頼を獲得しなければなりません。もちろんこうしたことはあなたにとってわかりきったことだと思いますが、念のため言っておきます。私は状況について十分知りえていませんので、具体的な助言をすることはできません。せめて指摘しておきたいのは、10月革命以前、われわれが最も純粋なアナーキストとさえ協力して活動するためにあらゆる努力をしたということです。

 ケレンスキー政府はしばしばボリシェヴィキとアナーキストとの対立を利用しようとしました。レーニンは断固としてそれに反対しました。彼は言いました、この状況のもとでは、1人の戦闘的なアナーキスト活動家は、100人の右顧左眄するメンシェヴィキよりも 価値があると。ファシストによって諸君に押しつけられた内戦において、最も大きな危険は断固たる姿勢の欠如、曖昧さの精神、つまり一言で言えば、メンシェヴィズムです。

 再び言いますが、いっさいのことがあまりにも不明確です。自分の考えをできるだけ正確なものにするために私は何でもするつもりです。しかし、そうするためには、私たちを引き離しているこの距離を克服しなければなりません…。

 私としては、ありうるあらゆる意見の相違にもかかわらず、闘争の渦中にいる同志たちと相互理解に達したいと心から願っていると誓うことができます。現在と未来が共通の闘争への道を切り開いているならば、過去を振り返ることは恥ずべき些事です。

 私は辞書の助けを借りて、闘争の推移を詳しく追うつもりです。けれども、4日ないし5日で元どおりになるということはないでしょう。

 私の心からのあいさつをすべての友人たちに、そして、とりわけ、理由があって私に不満を感じているすべての人々に。

 <追伸>

 親愛なるルー

 この手紙は、あなたが必要と思えば、ニンやその他の人々に見せてもかまいません。この手紙の中で私が言っていることはけっして外交的なマヌーバーではありません。もう一度言いますが、柔軟性と断固さとが結びつかなければなりません。私は手足を縛られているような状態にあります。ナターリアと私からの心からの愛情を込めて。

L.T.

1936年8月16日

『スペイン革命(1931-1939)』所収

『ニューズ・レター』第17号より

  訳注

(1)同志……ルー、ジャン(1908-1985)のこと。フランスのトロツキスト、弁護士。フランスの国際主義労働者党を指導。国際書記局に属し、スペイン問題を担当。

(2)ファシストによる襲撃……1936年8月4日、ノルウェーのファシストはトロツキーの家を襲って、文書の一部を奪い取った。

(3)タス通信の有名な声明……モスクワ裁判がトロツキーを、ソ連へのテロリスト的攻撃を実行していると非難したこと。

(4)ヤーゴダ、ゲンリク(1891-1938)……古参ボリシェヴィキ、ゲ・ペ・ウ幹部。1904年から革命運動に参加。1907年にボリシェヴィキ入党。一時期、統計学者。10月革命後、いくつかの軍事ポストを歴任。1920年からチェカの指導的活動に参加。1924年にゲ・ペ・ウの副長官。1934年から1936年まで内務人民委員(NKVD)。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として死刑を宣告され、銃殺。

(5)マウリン、ホアキン(1897-1973)……スペインの労働運動活動家、CNT指導者、共産主義者。ブハーリンの右翼反対派を支持して1929年にスペイン共産党から追放。カタロニア労農ブロックを組織。1935年、アンドレウ・ニンと協力して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年に内戦が勃発したとき、POUMの国会議員であったマウリンはフランコの軍隊に逮捕され、投獄された。1947年、釈放されると、アメリカに亡命していっさいの政治活動をやめてしまった。

(6)ニン、アンドレウ(アンドレス)(1892-1937)……スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に誘拐され、拷問の挙句、虐殺される。

(7)アンドゥラデ、フアン(1897-1981)……スペインの共産主義者。社会主義青年同盟の指導者から共産党へ。1921年にスペイン共産党の中央委員。1930年に左翼反対派に。1935年に左翼反対派と分裂し、ニンとともにPOUM結成に参加し、同党の指導者に。


  

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